ィ人[#「かの優しきレヴィ人」に傍点]と言い、新聞紙に帰せらるる錯誤を新聞機関の欄内に毒を注ぐ欺瞞[#「新聞機関の欄内に毒を注ぐ欺瞞」に傍点]と言い、その他種々の言い方を持っている。――ところで弁護士はまず林檎《りんご》窃盗の件の説明より初めた。美しい語法においては説明に困難な事がらである。しかしベニーニュ・ボシュエもかつて祭文のうちにおいて一羽[#「一羽」に傍点]の牝鶏《めんどり》の事に説きおよぼさなければならなかった、しかも彼はみごとにそれをやってのけたのだった。今弁護士は、林檎の窃盗は具体的には少しも証明せられていない旨を立論した。――弁護人として彼がシャンマティユーと呼び続けていたその被告は、壁を乗り越えもしくは枝を折るところをだれからも見られたのではない。――彼はただその枝(弁護士は好んで小枝[#「小枝」に傍点]と言った)を持っているところを押さえられただけである。――しかして彼は、地に落ちているのを見いだして拾ったまでだと言っている。どこにその反対の証拠があるのか? ――おそらくその一枝はある盗人によって、壁を越えた後に折られ盗まれ、見つかってそこに捨てられたものであろう。疑いもなく、盗人はあるにはあった。――しかしその盗人がシャンマティユーであったという何の証拠があるか。ただ一事、徒刑囚であったという資格、不幸にしてそれはよく確証せられたらしいことを弁護士も否定しなかった。被告はファヴロールに住んでいたことがある。被告はその地で枝切り職をやっていた。シャンマティユーという名前は本来ジャン・マティユーであったであろう。それは事実である。それから四人の証人も、シャンマティユーを囚人ジャン・ヴァルジャンであると躊躇《ちゅうちょ》するところなく確認している。それらの徴証とそれらの証言に対しては、弁護士も被告の否認、利己的な否認をしか持ち出し得なかった。しかし、たとい彼がもし囚徒ジャン・ヴァルジャンであったとしても、それは彼が林檎《りんご》を盗んだ男であるという証拠になるであろうか? それは要するに推定であって、証拠ではない。が被告は「不利な態度」を取った。それは事実で、弁護士も「誠実なところ」それを認めざるを得なかった。被告は頑固《がんこ》にすべてを否認した、窃盗《せっとう》もまた囚人の肩書きをも。だがこの後者の方は確かに自白した方がよかったであろう。そうすればあるいは判事らの寛大な処置を買い得たかも知れなかった。弁護士もそれを彼に勧めておいたのであった。しかし被告は頑強にそれを否認した。きっと何も自白しなければすべてを救い得ると思ったのであろう。それは明らかに誤りであった。しかしかく思慮の足りないところもよろしく考量すべきではあるまいか。この男は明らかに愚かである。徒刑場における長い間の不幸、徒刑場を出て後の長い間の困苦、それは彼を愚鈍になしてしまったのである。云々《うんぬん》。彼は下手《へた》な弁解をしたが、それは彼を処刑すべき理由にはならない。ただプティー・ジェルヴェーの事件に至っては、弁護士もそれを論議すべきものを持たなかった。それはまだ訴件のうちにはいっていなかったのである。結局、もし被告がジャン・ヴァルジャンと同一人であると認定せらるるにしても、監視違反囚に対する警察法にのみ彼を問い、再犯囚に対する重罪に処せないようにと、弁護士は陪審員および法官一同に向かって懇願しながら、その弁論を結んだ。
検事は弁護士に対して反駁《はんばく》した。彼は検事の通性として辛辣《しんらつ》でまた華麗であった。
彼は弁護士の「公明」を祝した、そしてその公明を巧みに利用した。彼は弁護士の認めたすべての点によって被告を難じた。弁護士は被告がジャン・ヴァルジャンであることを認めたがようであった。彼はその点をとらえた。被告はゆえにジャン・ヴァルジャンである。この点は既に起訴のうちに明らかで、もはや抗弁の余地はない。そこで検事は巧みに論法を換えて、犯罪の根本および原因にさかのぼり、ロマンティック派の不道徳を痛論した。ロマンティック派は当時、オリフラム紙やコティディエンヌ紙の批評家らが与えた悪魔派[#「悪魔派」に傍点]の名の下に起こりかけていたのだった。検事はいかにも真《まこと》らしく、シャンマティユーいや換言すればジャン・ヴァルジャンの犯罪は、その敗徳文学の影響であるとした。その考察が済んで、彼は直接ジャン・ヴァルジャンに鋒先《ほこさき》を向けた。ジャン・ヴァルジャンとはいったい何物であるか? 彼はそこでジャン・ヴァルジャンのことを詳細に描出した。地より吐き出されたる怪物|云々《うんぬん》。それらの描出の模範はこれをテラメーヌ([#ここから割り注]訳者注 ラシーヌの戯曲フエードル中の人物[#ここで割り注終わり])の物語のうちに求められる。それは悲劇には無用なものであるが、常に法廷の雄弁には大なる貢献をなすものである。傍聴人や陪審員らは「震え上がった。」その描出がすんで彼は、翌朝のプレフェクチュール紙の大なる賛辞をかち得んための抑揚《よくよう》をもって言を進めた。――そして被告は実にかくのごとき人物である、云々。浮浪人であり、乞食《こじき》であり、生活の方法を有せぬ奴《やつ》である、云々。――被告は過去の生涯によって悪事になれ、入獄によっても少しもその性質が改まらなかったのである。プティー・ジェルヴェーに関する犯罪はそれを証して余りある、云々。――被告は不敵なる奴である。大道において、乗り越した壁より数歩の所において、盗める品物を手に持っていて、現行犯を押さえられ、しかもなおその現行犯を、窃盗《せっとう》を、侵入を、すべてを否認し、おのれの名前までも否認し、同一人なることまでも否認している。しかし吾人《ごじん》はここに一々持ち出さないが、幾多の証拠がある。それを外にしても四人の証人が認めている。すなわち、ジャヴェル、あの清廉なる警視ジャヴェル、および被告の昔の汚辱の仲間、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユの三人の囚人。その一致したる恐るべき証言に対して、彼はいかなる反駁《はんばく》を有するか? 彼は単に否定する。いかなる頑強さぞ! 陪審員諸君、諸君はよろしく公平なる判断を下さるることと思う、云々《うんぬん》。――検事がかく語っている間、被告は多少感嘆を交じえた驚きをもって呆然《ぼうぜん》と口を開いて聞いていた。人間の力でよくもかく語り得るものだと彼は明らかに驚いたのである。時々、論告の最も「溌剌《はつらつ》」たる瞬間、自らおさえかねる能弁が華麗なる文句のうちにあふれ出て、被告を暴風雨のごとく包囲する瞬間には、彼は右から左へ左から右へとおもむろに頭を動かした。それは一種の悲しい無言の抗弁であって、彼は弁論の初めよりそれだけで自ら満足していたのである。彼の最も近くに立会ってる人々は、彼が二、三度口のなかで言うのを聞いた。「バルーさんに尋ねなかったからこんなことになるんだ!」――その愚昧《ぐまい》な態度を検事は陪審員らに注意した。それは明らかに故意にやっているもので、被告の痴鈍を示すものではなく、実に巧妙と狡猾《こうかつ》とを示すものであり、法廷を欺く常習性を示すものであり、被告の「根深い奸悪《かんあく》」を現わすものである。そして彼は、プティー・ジェルヴェーの事件はこれを保留しておき、厳刑を請求しながら弁論を終えた。
ここに厳刑というのは、読者の知るとおり、無期徒刑をさすのである。
弁護士はまた立ち上がって、まず「検事殿」にその「みごとなる弁舌」を祝し、次にできる限りの答弁を試みた。しかし彼の論鋒《ろんぽう》は鈍っていた。地盤は明らかに彼の足下にくずれかけていた。
十 否認の様式
弁論を終結すべき時はきた。裁判長は被告を起立さして、例のごとく尋ねた。「被告はなお何か申し開きをすることはないか。」
男は立ったまま手に持っているきたない帽子をひねくっていた。裁判長の言葉も聞こえぬらしかった。
裁判長は再び同じ問いをかけた。
こんどは男にも聞こえた。彼はその意味を了解したらしく、目がさめたというような身振りをし、周囲を見回し、公衆や憲兵や自分の弁護士や陪審員や法官らをながめ、腰掛けの前の木|柵《さく》の縁にその大きな拳《こぶし》を置き、なお見回して、突然検事の上に目を据えて語り初めた。それはあたかも爆発のごときものだった。その言葉は、支離滅裂で、急激で、互いに衝突し混乱して、口からほとばしりいで、一時に先を争って出て来るかのようだった。彼は言った。
「私の言うのはこうだ。私はパリーで車大工をしていた。バルー親方の家だ。それはえらい仕事だ。車大工というものは、いつも戸外《そと》で、中庭で、仕事をしなくちゃならない。親切な親方の家じゃ仕事場でするんだが、決してしめ切った所じゃない。広い場所がいるからだ。冬なんかひどく寒いから、自分で腕を打って暖まるくらいだ。だが親方はそれを喜ばない。時間がつぶれるというんだ。舗石《しきいし》の間には氷がはりつめていようという寒い時に鉄を扱うのは、つらいもんだ。すぐに弱ってしまう。そんなことをしていると、まだ若いうちに年をとってしまう。四十になる頃にはもうおしまいだ。私は五十三だった、非常につらかった。それに職人というものは意地が悪いんだ! 年が若くなくなると、もう人並みの扱いはしないで老耄奴《おいぼれめ》がと言いやがる。私は一日に三十スーよりもらわなかった。給金をできるだけ安くしようというのだ。親方は私が年をとってるのをいいことにしたんだ。それに私は、娘が一人あった。川の洗たく女をしていたが、その方でも少ししか取れなかった。でも二人で、どうにかやってはゆけた。娘の方もつらい仕事だった。雨が降ろうが、雪が降ろうが、身を切るような風に吹かれて、腰まである桶《おけ》の中で一日働くんだ。氷が張っても同じだ。洗たくはしなけりゃならない。シャツをよけいに持っていない人がいるんだ。後を待っている。すぐに洗わなけりゃ流行《はや》らなくなってしまう。屋根板がよく合わさっていないので、どこからでも雨がもる。上着や下着は皆びしょぬれだ。身体にまでしみ通ってくる。娘はまた、アンファン・ルージュの洗たく場でも働いたことがある。そこでは水が鉄管から来るので、桶の中にはいらないですむ。前の鉄管で洗って、後ろの盥《たらい》でゆすぐんだ。戸がしめてあるんだからそんなに寒くはない。だが恐ろしく熱い蒸気が吹き出すから、目を悪くしてしまう。娘は夕方七時に帰ってきて、すぐに寝てしまう。そんなに疲れるんだ。亭主はそれをなぐる。そのうち娘は死んでしまった。私どもは非常に不仕合わせだった。娘は夜遊びをしたこともなく、おとなしいいい子だった。一度カルナヴァルのしまいの日に、八時に帰ってきて寝たことがあったばかりだ。そのとおりだ。私は本当のことを言ってる。調べたらすぐわかることだ。ああそうだ、調べるといったところで、パリーは海のようなもんだ。だれがシャンマティユーじいなんかを知ってよう。だがバルーさんなら知ってる。バルーさんの家に聞いてみなさい。その上で私をどうしようと言いなさるのかね。」
男はそれで口をつぐんで、なお立っていた。彼はそれだけのことを、高い早い嗄《しわが》れたきつい息切れの声で、いら立った粗野な率直さで言ってのけた。ただ一度、群集の中のだれかにあいさつするため言葉を途切らしただけだった。やたらにつかんでは投げ出したようなその断定の事がらは、吃逆《しゃっくり》のように彼の口から出た。そして彼はその一つ一つに、木を割ってる樵夫《きこり》のような手つきをつけ加えた。彼が言い終わった時、傍聴人は失笑《ふきだ》した。彼はその公衆の方をながめた。そして皆が笑ってるのを見て、訳もわからないで、自分でも笑い出した。
それは彼にとって非常な不利であった。
注意深いまた親切な裁判長は、口を開いた。
彼は「陪審員諸君」に、「被告が働いていたという以前の車大工親方バルーという者を召喚したが出頭しなかった、破産をして行方
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