。彼は目をあげるが、見ゆるものとては鉛色の雲ばかり。苦痛にもだえながら彼は、海の広漠たる狂暴を目撃する。彼はその狂乱によって訶《さいな》まれる。彼は人の聞きなれない異様な物音を聞く。あたかも陸地のかなた遠くから、人に知られぬ恐るべき外界から、伝わり来るがようである。
 雲の高きに鳥が舞う、それと同じく人の苦難をこえたるかなたに天使がある。しかしながらその天使らも彼のために何をなすことができるか。それらは飛び歌い翔《かけ》る、そして彼は息をあえいでいる。
 彼は二つの無限なるものによって同時に葬られたごとく感ずる、すなわち大洋と天との二つによって。一つは墳墓であり、他は経帷子《きょうかたびら》である。
 夜は落ちて来る。はや彼は数時間泳いでいたのである。彼の力はまさに尽きんとしている。あの船、人々のいたあの遠い物は、姿が消えた。彼はただひとり恐ろしい薄暮の深淵のうちにある。彼は沈みゆき、身を固くし、身を悶《もだ》える。身の下には目に見えざるものの怪奇な波動を感ずる。彼は呼ぶ。
 人はもはやいない。神はどこにあるか。
 彼は呼ぶ。おおい! おおい! 彼は呼び続ける。
 水平線には一物もない
前へ 次へ
全639ページ中208ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング