。」
マドレーヌ氏は答えなかった。フランドル人は言った。
「ひどい寒さですがよろしゅうござんすか。」
マドレーヌ氏はなお黙っていた。スコーフレール親方は続けて言った。
「雨が降るかも知れませんよ。」
マドレーヌ氏は頭をあげて、そして言った。
「その小馬車と馬とを、明朝四時半にわしの家の門口までつけてほしいね。」
「よろしゅうございます、市長さん。」とスコーフレールは答えた。それから彼はテーブルの木の中についている汚点《しみ》を親指の爪《つめ》でこすりながら、自分の狡猾《こうかつ》をおし隠す時のフランドル人共通な何気ないふうをして言った。
「ちょっと思い出したんですが、旦那《だんな》はまだどこへ行くともおっしゃらなかったですね。いったいどこへおいでになるんです。」
彼は話のはじめからそのことばかりを考えていたのであるが、なぜかその問いを出しかねていた。
「その馬は前足は丈夫かね。」とマドレーヌ氏は言った。
「丈夫ですとも。下り坂には少しおさえて下さればよろしゅうござんす。おいでになろうって所までは下り坂がたくさんあるんですか。」
「あすの朝四時半きっかりに門口まで忘れないように頼むよ。」とマドレーヌ氏は答えた。そして彼は出て行った。
フランドル人は、後に彼が自分でも言ったように、「まったく呆気《あっけ》にとられて」しまった。
市長が出て行って二、三分した頃、戸はまた開かれた。やはり市長だった。
彼はなお同じように、何かに思いふけってる自若たる様子だった。
「スコーフレール君、」と彼は言った、「君がわしに貸そうという馬と小馬車とはおよそどれほどの価に見積るかね、馬に馬車をのせて。」
「馬に馬車を引かせるんですよ、旦那《だんな》。」とフランドル人は大きく笑いながら言った。
「そうそう。それで?」
「旦那が買い取って下さるんですか。」
「いや。ただ万一のために保証金を出しておくつもりだ。帰ってきたらその金を返してもらうさ。馬車と馬とをいくらに見積るかね。」
「五百フランに、旦那。」
「それだけここに置くよ。」
マドレーヌ氏はテーブルの上に紙幣を置いて、それから出て行った。そしてこんどはもう戻ってこなかった。
スコーフレール親方は千フランと言わなかったことをひどく残念がった。馬と馬車とをいっしょにすれば百エキュー([#ここから割り注]訳者注 五百フランに当る[#ここで割り注終わり])の価はあったのである。
フランドル人は家内《かない》を呼んで、そのできごとを話した。いったい市長はどこへ行くんだろう? 二人は相談し合った。「パリーへ行くんでしょうよ。」と家内は言った。「俺はそうは思わん。」と亭主は言った。ところが、マドレーヌ氏は暖炉の上に数字をしるした紙片を置き忘れていた。フランドル人はそれを取り上げて調べてみた、「五、六、八半、これは宿場にちがいない。」彼は家内の方に向いた。「わかったよ。」「どうして?」「ここからエダンまで五里、エダンからサン・ポルまで六里、サン・ポルからアラスまで八里半、市長はアラスへ行くんだ。」
そのうちにマドレーヌ氏は家に帰っていた。
スコーフレール親方の家から帰りに彼は、あたかも司祭邸の戸が何か誘惑物ででもあって、それを避けんとするかのように、回り道をした。それから彼は自分の室に上ってゆき、そして中に閉じこもった。彼はよく早くから床につくことがあったので、それは別に怪しむべきことではなかった。けれども、マドレーヌ氏のただ一人の下婢《かひ》であって同時に工場の門番をしていた女は、彼の室の燈火《あかり》が八時半に消されたのを見た。そして彼女はそのことを帰ってきた会計係りの男に話し、なおつけ加えた。
「旦那様《だんなさま》は病気ではないでしょうか。何だか御様子が変わっていたようですが。」
この会計係りの男は、マドレーヌ氏の室のちょうど真下の室に住んでいた。彼は門番の女の言葉を気にもかけず、床について眠った。夜中に彼は突然目をさました。夢現《ゆめうつつ》のうちに彼は、頭の上に物音をきいたのだった。彼は耳を澄ました。だれかが上の室を歩いてるような行き来する足音だった。彼はなお注意して耳を澄ました。するとマドレーヌ氏の足音であることがわかった。彼にはそれが異様に思えた。マドレーヌ氏が起き上がる前にその室に音のすることは、平素なかったのである。しばらくすると彼は、戸棚が開かれてまたしめらるるような音を聞いた。それから何か家具の動かされる音がして、そのままちょっとひっそりして、また足音がはじまった。彼は寝床に身を起こした。すっかり目がさめて、じっと目を据えると、窓越しにすぐ前の壁の上に、燈火のついたどこかの窓の赤い火影《ほかげ》がさしてるのを認めた。その光の方向をたどってみると、それはマドレーヌ氏の室
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