当のことを言うんだ。時機至った時に勇ましき決心の臍《ほぞ》を固め、シルラもしくはオリゲネスのごとく後ろを顧みざる者は、幸福なるかな!」
ファヴォリットは深い注意を払ってそれを聞いていた。
「フェリックス、」と彼女は言った、「何といい言葉でしょう。あたしそういう名前が好きよ。ラテン語だわね。繁昌《はんじょう》という意味でしょう。」
トロミエスは言い続けた。
「市民よ紳士よ騎士よわが友よ! 諸君は、何らの刺激をも感ずることを欲せず、婚姻の床にもはいらず、恋をないがしろにせんと欲するか。それよりたやすいことはない。ここにその処方がある、曰《いわ》く、レモン水、過度の運動、労役、疲労、石|曳《ひ》き、不眠、徹夜、硝酸水および睡蓮《すいれん》の煎《せん》じ薬の飲取、罌粟《けし》および馬鞭草《くまつづら》の乳剤の摂取、それに加うるに厳重なる断食をもって腹を空《から》にし、その上になお冷水浴、草の帯、鉛板着用、鉛酸液の洗滌《せんじょう》、酸水剤の温蒸。」
「僕はそれよりも女を選ぶ。」とリストリエが言った。
「女!」とトロミエスは言った。「女を信ずるな。女の変わりやすき心に身を投げ出すものは不幸なるかなだ。女は不実にして邪曲である。女は商売|敵《がたき》の感情で蛇《へび》をきらうのだ。蛇は女と向かい合いの店だ。」
「トロミエス、」とブラシュヴェルは叫んだ、「君は酔っている!」
「なあに!」とトロミエスは言った。
「それではもっと愉快にしろ。」とブラシュヴェルは言った。
「賛成。」とトロミエスは答えた。
そして杯に酒を満たしながら、彼は立ち上がった。
「酒に光栄あれ! バッカスよわれ今汝を[#「バッカスよわれ今汝を」に傍点]頌《たた》えん[#「えん」に傍点]! ごめん、婦人諸君、これはスペイン式だ。ところで、その証拠はここにある、曰く、この人民にしてこの樽《たる》あり。カスティーユの樽《アローブ》は十六リットルであり、アリカントの樽《カンクロ》は十二リットル、カナリーの樽《アルムユード》は二十五リットル、バレアールの樽《キュアルタン》は二十六リットル、ピーター大帝の樽《ボット》は三十リットルである。偉大なりし大帝万歳、しかして更にいっそう偉大なりし彼の樽《ボット》万歳だ。婦人諸君、これは友人としての忠告だ。よろしくば互いに隣人を欺け。恋の特性は流転にある。愛情は膝《ひざ》に胼胝《たこ》を出かしてるイギリスの女中のように、すわり込んでぼんやりするために作られてはいない。そのためにではないんだ。愛情は愉快にさ迷う。楽しき愛情よ! 迷いは人間的であると人は言う。が僕は言いたい、迷いは恋愛的であると。婦人諸君、僕は諸君を皆崇拝する。おおゼフィーヌ、おおジョゼフィーヌ、愛嬌のある顔よ、歪《ゆが》んでさえいなければ素敵である。うっかり腰をかけられてつぶされたようなかわいい顔つきをしている。ファヴォリットに至っては、ニンフにしてミューズの神だ。ある日ブラシュヴェルがゲラン・ボアソー街の溝《どぶ》の所を通っていると、白い靴足袋《くつたび》を引き上げ脛《はぎ》を露《あら》わにした美しい娘を見た。その初会が彼の気に入って、そして彼は恋するに至った。その彼の恋人がファヴォリットなのだ、おおファヴォリットよ! 汝の脣《くちびる》はイオニア式だ。エウフォリオンというギリシャの画家が居たが、脣の画家と綽名《あだな》されていた。そのギリシャ人一人のみが汝の脣を画くに足る。聞きたまえ、汝以前にはかつてその名に値する人間はいなかったのだ。汝はヴィーナスのように林檎《りんご》をもらい、イヴのように林檎を食うために作られている。美は汝より始まる。僕は今イヴのことを言ったが、イヴを作ったのはそれは汝だ。汝は美人発明の特許権を得てもいいのだ。おおファヴォリット、こんどは汝と呼ぶことをやめよう、詩から散文の方へ移るのだ。君は先刻僕の名のことを言ったね。それは僕の心を動かした。しかしわれわれが何であろうとも、われわれは名前に疑問をいだこうではないか。名前も誤ることがある。僕はフェリックス([#ここから割り注]訳者注 繁昌幸福の意[#ここで割り注終わり])という名だ、そして少しも幸福ではない。言葉は嘘《うそ》つきである。言葉がわれわれにさし示すことをむやみに受け入れてはならない。栓《せん》を買わんためにリエージュ([#ここから割り注]訳者注 キルク栓の意[#ここで割り注終わり])の町に手紙を書き、手袋を得んためにポー([#ここから割り注]訳者注 革の意[#ここで割り注終わり])の町に手紙を出すは誤りである([#ここから割り注]訳者注 ファヴォリットの名は寵愛の意を有することを記憶せられたい[#ここで割り注終わり])。ダーリア嬢よ、僕がもし君であったら、ローザと自分を称したい。花にはいい
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