事は彼に決定的な効果を及ぼした。その一事は、彼の知力のうちの混沌《こんとん》たるものを突然貫いて、それを消散させ、一方に濃い暗黒と他方に光明とを分かち、その時の状態の彼の魂に働きかけて、あたかもある化学的反応体が混沌たる混和物の上に働いて、一の原素を沈澱《ちんでん》させ他の原素を清澄ならしむるがような作用を及ぼしたのである。
 彼はまず第一に、よく自らを顧み熟慮する前に、身をのがれんとする者のようにただむやみと、金を返すために少年を見つけだそうとつとめた。それから、それがむだなことでまたでき得ないことであるのを知った時に、絶望して立ち止まった。ああ俺は惨《みじ》めな男だ! と叫んだとき、彼は自分のありのままの姿を認めていたのであった。そして彼は自分自身がもはや一つの幻であるように思われたほど既に自己を絶した地点にあって、肉と骨とをそなえた醜い囚人ジャン・ヴァルジャンの方は、手に杖を握り、胴に仕事着をまとい、窃盗品でいっぱいになってる背嚢《はいのう》を背に負い、決然たるしかも沈鬱《ちんうつ》なる顔をし、のろうべき企《たく》らみに満ちてる思念をいだいて、そこに彼の前に立っていたのである。
 過度の不幸は、前に述べたとおり、彼をして一種の幻覚者たらしめていた。で、このことも一つの幻影に似ていた。彼は本当に自分の前に、ジャン・ヴァルジャンを、その凄愴《せいそう》な顔を見た。その瞬間彼は、その男がだれであるか、自ら怪しみ、その男に嫌悪《けんお》の念をいだいた。
 彼の頭は、幻想がいかにも深刻で現実をのみ尽さんとする、あの激越なしかも恐ろしく静かな瞬間の一つにあった。かかるとき人は、もはやおのれの周囲にある事物は目に止まらず、おのれの精神のうちにある像《すがた》をおのれの外にあるかのように目に見るものである。
 そして彼は、言わば面と向かって自己をうちながめ、同時に、その幻覚を通してある神秘な奥深い所に一種の光明を見た。彼は最初それを炬火《たいまつ》の炎のようにも思った。が自分の本心のうちに現われてきたその光明をいっそう注意してながめていると、それが人間の形をそなえていることを知った、そしてその炎は司教であることを知った。
 彼の本心は、かくおのれの前に置かれた二人の者、司教とジャン・ヴァルジャンとを、かわるがわるうちながめた。後者をうち砕かんがためには前者でなければならなかった。その幻想が引き続くにつれて、この種の幻惑の特質たる特殊な働きの一つによって、司教の姿はしだいに大きくなって彼の目に輝き渡り、ジャン・ヴァルジャンの姿は、しだいに小さくなって消えていった。やがてそれは一つの影にすぎなくなり、忽然《こつぜん》と消え失《う》せた。そして司教一人|後《あと》に残った。
 その姿は、この惨《みじ》めなる者の魂をすみずみまで燦然《さんぜん》たる光明をもって満たした。
 ジャン・ヴァルジャンは長い間泣いた。女よりも弱々しく小児よりもおびえて、熱い涙を流して咽《むせ》び泣いた。
 泣いている間に、彼の脳裏にはしだいに明るみがさしてきた。異常なる明るみ、喜ばしいしかも同時に恐ろしい明るみであった。彼の過去の生涯、彼の最初の過《あやま》ち、彼の長い贖罪《しょくざい》、彼の外部の愚鈍、彼の内部の冷酷、あれほど多くの復讐《ふくしゅう》の計画をもって楽しんだ彼の釈放、司教の家で彼に起こったこと、彼がなした最後の一事、少年から四十スーを盗んだこと、司教の仁恕の後に行なわれただけにいっそう卑劣でいっそう凶悪であったその罪、すべてそれらのことが、明らかに、かつてなかったほどの明るさで、彼の心に蘇《よみがえ》って現われてきた。彼は自分の生涯をながめた、そしてそれは彼の目に嫌悪すべきもののように映じた。彼は自分の魂をながめた、そしてそれは彼の目に恐怖すべきもののように映じた。けれども穏かな明るみがその生涯とその魂との上に射《さ》していた。天国の光明によって悪魔を見たように彼には思えた。
 かくしていくばくの間彼は泣いていたか。泣いた後に彼は何をなしたか。どこへ彼は行ったか。だれもそれを少しも知らなかった。ただ一つ確かめられたことは、その同じ夜、当時グルノーブル通いをしていた馬車屋が、朝の三時頃ディーニュに着いて、司教邸のある通りを通ってゆく時に、一人の男がビヤンヴニュ司教の家の前で、祈るような姿をして闇《やみ》の中に舗石《しきいし》の上にひざまずいているのを、見かけたということである。
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   第三編 一八一七年のこと


     一 一八一七年

 一八一七年は、ルイ十八世が幾分|矜《ほこ》らかに厳《いか》めしくも彼の治世第二十二年と称した年である。それはブリュギエール・ド・ソルソン氏が世に高名であった年である。あらゆる理髪屋の店は、髪粉の流行
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