やぶ》のうしろにすわった。地平線にはアルプス連山がそびえてるばかりだった。遠く村落の鐘楼の影さえも見えなかった。ジャン・ヴァルジャンはディーニュから多分三里くらいはきていた。平野を横切っている一筋の小道が、藪から数歩の所に走っていた。
彼は考えに沈んでいた。その様子は出会う人の目に彼のまとったぼろを、いっそう恐ろしく映じさせたであろう、とその時、彼の耳に楽しそうな響きが聞こえてきた。
彼は首をめぐらした。そして十歳ばかりのサヴォア生まれの少年が歌を歌いながら小道をやって来るのを見た。絞絃琴《ヴイエル》を脇《わき》につけ、モルモットの箱を背に負っていた。地方から地方へ渡り歩いて、ズボンの破れ目から膝頭《ひざがしら》をのぞかせてる、あのおとなしい快活な少年の一人であった。
歌をうたいながら少年は、時々歩みを止めて、手に持ってる数個の貨幣を手玉に取ってもてあそんでいた。おそらくそれは彼の全財産であったろう。その貨幣のうちには一つ四十スー銀貨がはいっていた。
少年はジャン・ヴァルジャンには気がつかないで藪のそばに立ち止まった、そして一握りの貨幣を放り上げた。それまで彼は巧みにそのすべてを手の甲に受け止めていたのであった。
がこのたびは、四十スーの銀貨が手からすべって、藪の方へころがってジャン・ヴァルジャンの所までいった。
ジャン・ヴァルジャンはその上に足先をのせた。
でも少年はその貨幣を見やっていて、彼がそうするのを見て取った。
少年は少しも驚かないで、彼の方へ真っすぐにやってきた。
それはきわめて寂しい場所であった。目の届く限り野にも道にもだれもいなかった。非常に高く空を飛んでゆく渡り鳥の一群の弱いかすかな鳴き声が聞こえるばかりだった。子供は背を太陽に向けていて、髪の毛のうちには金色の光の線が流れていた。そしてジャン・ヴァルジャンの荒々しい顔は真っ赤な光で赤く照らされていた。
「小父《おじ》さん、」とそのサヴォアの少年は、無知と無邪気とからなる子供らしい信頼の調子で言った、「私のお金を。」
「お前の名は何というのか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「プティー・ジェルヴェーっていいます。」
「行っちまえ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「小父《おじ》さん、」と少年はまた言った、「私のお金を返して下さいな。」
ジャン・ヴァルジャンは頭をたれて、答えなかった。
少年はまた初めた。
「私のお金を、小父さん。」
ジャン・ヴァルジャンの目はじっと地面を見つめていた。
「私のお金をさ!」と少年は叫んだ。「私の白いお金を! 私の銀貨をさ!」
ジャン・ヴァルジャンはそれを少しも耳にしなかったかのようであった。少年はその上着のえりをとらえて、彼を揺すった。同時にまた、自分の貨幣の上にのせられてる鉄鋲を打った大きなその靴を動かそうと努めた。
「私のお金をよう! 四十スー銀貨を!」
少年は泣いていた。ジャン・ヴァルジャンは頭をあげた。でも彼はなおすわっていた。彼の目付きは乱れていた。彼は驚いたように少年を見つめ、それから杖の方へ手を伸べて、恐ろしい声で叫んだ。
「だれだ、貴様は?」
「私よ、小父さん。」と少年は答えた。「プティー・ジェルヴェーよ。私ですよ、私ですよ。どうか四十スー銀貨を返して下さいな。ねえ小父さん、足をどけて下さいよう!」
それから、小さくはあったが彼は苛《い》ら立ってきて、ほとんど脅かすような様子になった。
「さあ、足をどけてくれますか。足をどけて、さあ!」
「ああまだ貴様いたのか!」とジャン・ヴァルジャンは言った。そしてやはり貨幣の上をふまえながら突然すっくと立ち上がって、言い足した。「失《う》せやがれ!」
少年はびっくりして彼をながめた。そして頭から足の先まで震え上がり、ちょっと惘然《ぼうぜん》としていた後、ふり返りもせず声も立てず一目散に逃げ出した。
けれどしばらく行くと息が続かないで彼は立ち止まった。そしてジャン・ヴァルジャンは、ぼんやり何か考え込んでいるうちにも少年のすすりなく声を聞いた。
やがて少年の姿は見えなくなった。
太陽は没していた。
ジャン・ヴァルジャンのまわりには影が迫ってきた。彼はその日何も食べていなかった。少し熱もあったらしい。
彼は立ちつくしていた、少年が逃げ出した時のままの姿勢だった。長い不規則な間を置いては呼吸が胸をふくらした。彼の目は十一、二歩前のところに据えられて、草の中に落ちている青い陶器の古い破片《かけら》の形を注意深く見きわめているようだった。と突然彼は身震いをした。夕の冷気を感じたのだった。
彼はまた額《ひたい》に帽を深く引き下げ、機械的に手探りで上着の前を合わせボタンをはめ、一歩前に出て、地面から杖を取り上げるために身をかがめた。
その時、
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