《いちべつ》を与えてから、彼はもう決心したもののような行動をした。彼は寝所の所に歩いてゆき、背嚢《はいのう》を取り、それを開いて中を探り、何かを取り出して寝床の上に置き、靴をポケットにねじ込み、方々を締め直し、背嚢を肩に負い、帽子をかぶり、その目庇《まびさし》を目の上に深く引きおろし、手探りに杖をさがして、それを窓のすみに行って置き、それから寝床の所に戻ってきて、そこに置いてるものを決然と手につかんだ。それは短い鉄の棒に似たもので、一端は猟用の槍《やり》のようにとがっていた。
その鉄の一片が何用のために作られたものであるかは、暗闇《くらやみ》の中では見きわめ難かった。たぶんそれは梃《てこ》ででもあったろうか、またはおそらく棍棒《こんぼう》ででもあったろうか。
が昼間であったならば、それが坑夫用の燭台にほかならないことがよく認められたであろう。当時ときどき囚徒らは、ツーロンを囲む高い丘から岩を切り出すことに使われていた。そして彼らが坑夫用の道具を自由に使っていたのは珍しいことではなかった。坑夫の使う燭台は分厚い鉄でできていて、下端がとがって岩の中につき立てられるようになっている。
彼はその燭台を右手に取って、そして息をころし足音をひそめながら、隣室の扉《とびら》の方へやって行った。それは既にわかっているとおり司教の室である。その扉の所へ行ってみると、彼はそれが少し開いていることを見い出した。司教はそれをしめておかなかったのである。
十一 彼の所業
ジャン・ヴァルジャンは耳を澄ました。何の音もしない。
彼は扉を押した。
彼はそれを指の先で軽くやったのである。はいってゆこうとする猫《ねこ》のようなひそやかなおずおずした穏かさで。
扉は押されたとおりにほとんど見えないくらい静かに動いて、前よりなお少し大きく開いた。
彼は一瞬間待った。それから再び、こんどは少しく大胆に扉を押した。
扉はやはり音もなく押されるまま動いた。そしてもう彼が通れるくらいにはじゅうぶん開いた。しかし扉《とびら》のそばに一つの小さなテーブルがあって、それが扉と具合悪い角度をなして入り口をふさいでいた。
ジャン・ヴァルジャンは困難を見て取った。どうあってももっと扉を大きく開かなければならなかった。
彼は心を決して、前よりもいっそう力を入れて三度扉を押した。ところがこんどは、肱金《ひじがね》に油がきれていたので、突然闇の中にかすれた音がきしって長くあとを引いた。
ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。その肱金の音は、最後の審判のラッパのように激しく大きく彼の耳に響いた。
最初の瞬間には、それが奇怪に誇大されて感じられた。肱金が生き上って突然恐ろしい生命を授かり、すべての人に変を告げ眠った人々をさますために犬のようにほえていると、彼はほとんど思ったほどであった。
彼は胆《きも》をつぶして震えながら立ち止まり、爪立《つまだ》っていた足の踵《かかと》をおろした。動脈は両のこめかみに、鍛冶屋《かじや》の槌《つち》のように激しく脈打っているのが聞こえ、胸から出る息は洞穴《どうけつ》から出る風のような音を立ててるらしく思えた。その苛《い》ら立った肱金の恐ろしい響きは、地震のように全家を揺り動かさないではおかなかったろうと彼には思えた。扉は彼に押されて、変を告げて人を呼んだ、老人はまさに起きようとしている、二人の老婦人はまさに声を立てようとしている、彼らを助けに人々がやって来るだろう、十五分とたたないうちに全市は沸き返り、憲兵は動き出すだろう。一瞬間、彼はもう身の破滅だと思った。
彼はその場に立ちつくした。塑像《そぞう》のように固まってあえて身動きもなし得なかった。
数分過ぎた。扉はすっかり大きく開いていた。彼はふと室の内をのぞき込んでみた。何物も動いてはいなかった。彼は耳を澄ました。家の中には何も物の蠢《うご》めく気配もなかった。さびついた肱金《ひじがね》の音はだれの眠りをもさまさなかったのである。
その第一の危険は過ぎ去ったが、しかしなお彼のうちには恐ろしい胸騒ぎがあった。けれども彼はもう後に退かなかった。もはや身の破滅だと思った時でさえ、彼は退かなかったのである。彼はもうただ早くやり遂げようということしか考えなかった。彼は一歩ふみ出して、室の中にはいった。
室の中はまったく静まり返っていた。あちらこちらに雑然とした漠然《ばくぜん》たる形が認められた。それは昼間見れば、テーブルの上に散らばった紙や、開かれたままの二折本や、台の上に積み重ねられた書籍や、着物の置いてある肱掛椅子や、祈祷台などだとわかるが、その時にはただ暗いすみやほの白い場所などを作ってるだけだった。ジャン・ヴァルジャンは器物にぶっつからないようにしながら用心して足を
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