って、心のうちに討議し熟慮した重大なまじめな悪行である。彼の行為前の考えは相次いで三段の順序を経た。それは、ある種の素質を有するもののみが経過する三段であって、理屈と意欲と執拗《しつよう》とである。彼の行為の動力としては、たえざる憤激、内心の憂悶《ゆうもん》、自分の受けた不公平についての根深い感情、それから反動、もしありとすれば、善なるもの無垢《むく》なるもの正しきものにさえ対する反動、などがあった。彼のあらゆる思想の発点は、その帰点と同じく、人間の法律に対する憎悪であった。その憎悪の念は、もしその発展の途において何か天意のでき事によって止めらるることのない時には、やがては社会に対する憎悪となり、次には人類に対する憎悪となり、次には天地万物に対する憎悪となり、ついには、いかなる者たるを問わず、いやしくも生ける者ならばそれを害せんとする、漠然《ばくぜん》たるやむことなき獣性の願望となって現わるるものである。――これをもって見れば、通行券にジャン・ヴァルジャンを至って危険なる人物[#「至って危険なる人物」に傍点]なりと称したのは理由なきことではない。
年ごとに彼の魂は、徐々にしかし決定的に乾燥していった。心のかわく時には、目もかわく。徒刑場をいずるまで、十九年間、彼は実に一滴の涙をも流さなかった。
八 海洋と闇《やみ》夜
海中に一人の男!
それが何ぞや! 船は止まることをせぬ。風は吹き荒《すさ》む。暗澹《あんたん》たる船は一つの進路を有し、続航を強《し》いらるる。船は通り過ぎてゆく。
男の姿は消え次にまた現わるる。彼は波間に沈みまた水面に上り来る。彼は助けを呼び腕を差し出す。しかもだれもその声を聞かない。船は暴風雨の下に揺られながらみずからの運転に意を注ぎ、水夫と乗客との目にはもはや溺《おぼ》るる男の姿は止まらない。彼のあわれなる頭は、広漠《こうばく》たる波間にあってただの一点にすぎない。
彼は深海のうちに絶望の叫びを投げる。去りゆく船の帆はいかなる幻であるか! 彼はそれを見つめ、狂乱したように凝視する。帆は遠ざかり、おぼろになり、しだいに小さくなる。彼は先刻までその船にいたのである。彼は船員の一員であった。他の者とともに甲板を行ききし、空気と日光との分け前を有し、生きたる一人の者であった。が今何が起こったのか。彼はただ足をすべらし、落下した。それで万事終わったのである。
彼は大海のうちにある。足下には逆巻き流るる水のみである。風に砕け散る波は不気味に彼をとり巻き、深海のうねりは彼を運び去り、あらゆる水沫《すいまつ》は彼の頭のまわりにざわめき、無数の波は彼の上に打ちつけ、乱るる水の間に彼は半ばのまるる。下に沈むたびごとに、彼は暗黒な深淵をかいま見る。恐るべき名も知れぬ海草は彼を捕え、足に絡《から》み、彼を引き寄せる。彼はみずから深淵となるのを感ずる。彼は泡沫《ほうまつ》の一部となり、波より波へと投ぜられ、苦惨を飲む。太洋は彼を溺らさんとして、あるいは緩《ゆるや》かにあるいは急に襲いかかり、その広漠は彼の苦痛を弄《もてあそ》ぶ。それらすべての水はあたかも憎悪のごとくである。
それでも彼は争う。彼は身を守らんと努め、身をささえんと努め、努力し、泳ぐ。直ちに消耗するそのあわれな力をもって、彼は尽きざるものに対して戦う。
船はどこにあるのか。かしこに。水平線のおぼろな闇《やみ》の中にかろうじて姿が見える。
※[#「颱」の「台」に代えて「炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》は吹きつのる。あらゆる水沫は彼の上よりかぶさる。彼は目をあげるが、見ゆるものとては鉛色の雲ばかり。苦痛にもだえながら彼は、海の広漠たる狂暴を目撃する。彼はその狂乱によって訶《さいな》まれる。彼は人の聞きなれない異様な物音を聞く。あたかも陸地のかなた遠くから、人に知られぬ恐るべき外界から、伝わり来るがようである。
雲の高きに鳥が舞う、それと同じく人の苦難をこえたるかなたに天使がある。しかしながらその天使らも彼のために何をなすことができるか。それらは飛び歌い翔《かけ》る、そして彼は息をあえいでいる。
彼は二つの無限なるものによって同時に葬られたごとく感ずる、すなわち大洋と天との二つによって。一つは墳墓であり、他は経帷子《きょうかたびら》である。
夜は落ちて来る。はや彼は数時間泳いでいたのである。彼の力はまさに尽きんとしている。あの船、人々のいたあの遠い物は、姿が消えた。彼はただひとり恐ろしい薄暮の深淵のうちにある。彼は沈みゆき、身を固くし、身を悶《もだ》える。身の下には目に見えざるものの怪奇な波動を感ずる。彼は呼ぶ。
人はもはやいない。神はどこにあるか。
彼は呼ぶ。おおい! おおい! 彼は呼び続ける。
水平線には一物もない
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