ものはそうしたものです。」
彼が話している間に、司教は立っていってあけ放しになってる戸をしめた。
マグロアールは戻ってきた。彼女は一人分の食器を持ってきてそれを食卓の上に置いた。
「マグロアールや、」と司教は言った、「その食器をできるだけ暖炉の近くに置きなさい。」そして彼は客人の方へふり向いた。「アルプスの夜風は大変きびしいです。あなたはきっとお寒いでしょう。」
司教がそのあなた[#「あなた」に傍点]という言葉を、優しい重みのある、いかにも上品な声で言うたびごとに、男の顔は輝いた。囚人に対して言わるるあなた[#「あなた」に傍点]という言葉は、メデューズ号の難破者([#ここから割り注]訳者注 一八一六年に起こった最も悲惨な難破船[#ここで割り注終わり])に対する一ぱいの水のごときものである。はずかしめらるる者は他人の尊敬に飢えている。
「このランプは、」と司教は言った、「あまり明るくないな。」
マグロアールはその意味を了解した。そして閣下の寝間の暖炉の上から二つの銀の燭台《しょくだい》を取ってきて、それにすっかり火をともして食卓の上に置いた。
「司祭さん、」と男は言った、「あなたは善《よ》い方だ。あなたは私を軽蔑なさらない。私を家に入れて下さる。私のために蝋燭《ろうそく》をともして下さる。私がどこからきたかを隠さず、私が惨《みじ》めな者であることを隠さなかったのに。」
司教は彼のそばに腰を掛けて、静かに彼の手に触《さわ》った。「あなたはあなたがだれであるかを私に言わなくてもよかったのです。ここは私の家ではなくて、イエス・キリストのお家です。この家の戸ははいって来る人に向かって、その名前を尋ねはしません、ただ心に悲しみの有る無しを尋ねます。あなたが苦しんでいられ、飢えと渇《かわ》きとを感じていられるならば、あなたは歓待せられます。そして私に礼を言ってはいけません、私があなたを自分の家に迎え入れたのだと言ってはいけません。だれも、安息所を求める人を除いてはだれも、ここは自分の家ではありません。私は通りすがりのあなたに向かってもそれを言います。ここは私の家というよりもむしろあなたの家です。すべてここに在《あ》るものはあなたのものです。何で私があなたの名前を知る必要がありましょう。それにまた、あなたが言われない前から私はあなたの一つの名前を知っています。」
男は驚いた目を見開いた。
「本当ですか。あなたは私が何という名前か知っていられたのですか。」
「そうです。」と司教は答えた。「あなたの名前は私の兄弟というのです。」
「司祭さん、」と男は叫んだ、「ここにはいって来る時、私はたいへん腹がすいていた。けれどあなたがあまり親切なので、今ではもうどうなのかわからなくなりました。そんなことは通りすぎてしまったんです。」
司教は彼を見まもった、そして言った。
「あなたは大変苦しんだのですね。」
「おお、赤い着物や、足の鉄丸や、板の寝床や、暑さ、寒さ、労働、囚人の群れ、打擲《ちょうちゃく》! 何でもないことに二重の鎖で縛られるのです。ちょっと一言《ひとこと》間違えばすぐに監禁です。寝ついてる病人にまで鎖がつけられてるんです。犬、そう、犬の方がまだしあわせです! それが十九年間! 私は今四十六歳です。そしてこんどは黄いろい通行券! そういうわけです。」
「なるほど、」と司教は言った、「あなたは悲しみの場所から出てこられた。がお聞きなさい。百人の正しい人々の白衣に対してよりも、悔い改めた一人の罪人《つみびと》の涙にぬれた顔に対して、天にはより多くの喜びがあるでしょう。もしあなたがその痛ましい場所から、人間に対する憎悪と憤怒との思想を持って出てこられるならば、あなたはあわれむべき人で、もしそこから好意と穏和と平和との思想を持って出てこられるならば、あなたはわれわれのだれよりもまさった人です。」
その間にマグロアールは夕食を整えた。水と油とパンと塩とでできたスープ、少しの豚の脂肉《あぶらにく》、一片の羊肉、無花果《いちじく》、新しいチーズ、それに裸麦の大きなパン。彼女はまた自分で、司教の普通の食物にそえてモーヴの古いぶどう酒の一びんを出した。
司教の顔には急に、人を歓待する性質の人に特有な快活な表情が浮かんだ。「どうか食卓に!」と彼は元気よく言った。いつも他人と食事を共にする時のとおりに、彼は男を自分の右にすわらせた。バティスティーヌ嬢はまったく穏かにそして自然に、彼の左の席についた。
司教はいつものとおりに、祝祷《しゅくとう》をささげてからみずからスープをついだ。男はむさぼるように食い初めた。
突然司教は言った。「何か食卓に足りないようだね。」
マグロアールは実際そこに必要だった三人分の食器をそろえたのみだった。しかるに、司教がだ
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