その時旅人は前かがみになって、杖の先の金具の所で火の中に燃え残りを押しやっていたが、急にふり返った。そして彼が何か答弁しようとして口を開いた時に、主人はじっと彼を見つめて、やはり低い声でつけ加えた。「さあもう文句を言うには及ばない。君の名を言ってあげようか。君はジャン・ヴァルジャンというのだ。それから君がどんな人だか言ってあげようか。君がはいって来るのを見て、あることを感づいたんだ。私は市役所に人をやった。そしてここに役所からの返事がある。君は字が読めるだろう。」
 そう言いながら彼はその見知らぬ男へ、宿屋と市役所との間を往復した紙片をすっかりひろげて差し出した。男はその上に一|瞥《べつ》を与えた。亭主はちょっと沈黙の後にまた言った。
「私はだれに向かっても丁寧にするのが習慣《ならわし》だ。出て行きなさい。」
 男は頭をたれ、下に置いてる背嚢をまた取り上げ、そして出て行った。
 彼は大通りの方へ進んで行った。はずかしめられ悲しみに沈んでいる者のように、彼は人家のすぐ傍《わき》に寄って、ただ当てもなくまっすぐに歩いて行った。一度も後ろを振り返らなかった。もし振り返ったならば彼は、クロア・ド・コルバの亭主が入り口に立っていて、宿の客人たちや通りすがりの人たちにとりかこまれて、声高に話しながら彼の方を指《さ》しているのを見たであろう。そしてまた、群集の目付の中にある軽侮や恐怖の色によって、彼がやってきたことはやがて町中の一事件となるだろうということを見て取ったであろう[#「見て取ったであろう」は底本では「見て取ったのであろう」]。
 が彼はそれらのことを何にも見なかった。絶望しきった者は自分の後ろを振り返り見ないものである。悪い運命が自分の後について来るのをあまりによく知っている。
 彼はそうしてしばらく歩いて行った。ちょうど悲しみに沈んだ時に人がなすように、知らない通りをむやみに歩きながら疲れも忘れてただ歩き続けた。と突然彼は激しく空腹を感じた。夜は迫っていた。彼は何か身を宿すべき場所はないかと思ってあたりを見回した。
 りっぱな宿屋は彼に対して閉ざされたのである。彼は粗末な居酒屋《いざかや》か貧しい下等な家をさがした。
 ちょうど通りの向こうの端に燈火《あかり》がひらめいていた。鉄の支柱につるされている一本の松の枝が薄暮のほの白い空に浮き出していた。彼はそこへ行ってみた。
 果してそれは一軒の居酒屋であった。シャフォー街にある居酒屋であった。
 旅人はちょっと立ち止まって、窓からその中をのぞいてみた。天井の低い室のうちは、テーブルの上に置かれた小さなランプと盛んな炉の火とで照らされていた。四五人の者が酒を飲んでおり、主人は火に当たっていた。自在|鈎《かぎ》につるしてある鉄の鍋は火に煮立っていた。
 その居酒屋はまた同時に一種の宿屋であって、はいるには二つの戸口があった。一つは通りに開《あ》いているし、一つは廃物がいっぱい散らかってる小さな中庭に開いている。
 旅人は通りに面した入り口からはいることをはばかった。彼は中庭にはいりこみ、なおちょっと足を止め、それからおずおずと※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》をあげて戸を押した。
「だれだ、そこに居るのは。」と主人は言った。
「晩飯と一泊とをお願いしたいんです。」
「よろしい。晩飯と一泊ならここでできる。」
 彼ははいってきた。酒を飲んでいた人々は皆ふり向いた。ランプがその半面を照らし炉の火が他の半面を照らしていた。彼が背嚢をおろしている間、人々はしばらく彼をじろじろながめた。
 主人は彼に言った。「火がおこっている。晩飯は鍋で煮えているから、まあこっちへきて火に当たりなさるがいい。」
 彼は炉火のそばに行って腰を掛けた。疲れきった両足を火の前に伸ばした。うまそうなにおいが鍋から立っていた。目深にかぶった帽子の下から見えている彼の顔のうちには、安堵《あんど》の様子と絶えざる苦しみから来る険しい色とがいっしょになって浮かんでいた。
 それはまたしっかりした精悍《せいかん》なそして陰気な顔つきであった。変に複雑な相貌で、一見しては謙譲に見えるが、やがて峻酷《しゅんこく》なふうに見えて来る。目はちょうどくさむらの下に燃ゆる火のように眉毛《まゆげ》の下に輝やいていた。
 ところが、テーブルにすわっていた人々のうちに一人の魚屋がいた。彼はこのシャフォー街の居酒屋にやって来る前に、自分の馬をラバールの家の廐《うまや》に預けに行ったのだった。また偶然その日の午前にも、彼はその怪しい男がブラ・ダスと……(名前は忘れたがエスクーブロンであったと思う)との間を歩いているのに出会った。男はもう大変疲れているらしく、彼に出会うと、馬の臀《しり》の方にでも乗せてくれないかと頼んだ。
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