は、肱金《ひじがね》に油がきれていたので、突然闇の中にかすれた音がきしって長くあとを引いた。
ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。その肱金の音は、最後の審判のラッパのように激しく大きく彼の耳に響いた。
最初の瞬間には、それが奇怪に誇大されて感じられた。肱金が生き上って突然恐ろしい生命を授かり、すべての人に変を告げ眠った人々をさますために犬のようにほえていると、彼はほとんど思ったほどであった。
彼は胆《きも》をつぶして震えながら立ち止まり、爪立《つまだ》っていた足の踵《かかと》をおろした。動脈は両のこめかみに、鍛冶屋《かじや》の槌《つち》のように激しく脈打っているのが聞こえ、胸から出る息は洞穴《どうけつ》から出る風のような音を立ててるらしく思えた。その苛《い》ら立った肱金の恐ろしい響きは、地震のように全家を揺り動かさないではおかなかったろうと彼には思えた。扉は彼に押されて、変を告げて人を呼んだ、老人はまさに起きようとしている、二人の老婦人はまさに声を立てようとしている、彼らを助けに人々がやって来るだろう、十五分とたたないうちに全市は沸き返り、憲兵は動き出すだろう。一瞬間、彼はもう身の破滅だと思った。
彼はその場に立ちつくした。塑像《そぞう》のように固まってあえて身動きもなし得なかった。
数分過ぎた。扉はすっかり大きく開いていた。彼はふと室の内をのぞき込んでみた。何物も動いてはいなかった。彼は耳を澄ました。家の中には何も物の蠢《うご》めく気配もなかった。さびついた肱金《ひじがね》の音はだれの眠りをもさまさなかったのである。
その第一の危険は過ぎ去ったが、しかしなお彼のうちには恐ろしい胸騒ぎがあった。けれども彼はもう後に退かなかった。もはや身の破滅だと思った時でさえ、彼は退かなかったのである。彼はもうただ早くやり遂げようということしか考えなかった。彼は一歩ふみ出して、室の中にはいった。
室の中はまったく静まり返っていた。あちらこちらに雑然とした漠然《ばくぜん》たる形が認められた。それは昼間見れば、テーブルの上に散らばった紙や、開かれたままの二折本や、台の上に積み重ねられた書籍や、着物の置いてある肱掛椅子や、祈祷台などだとわかるが、その時にはただ暗いすみやほの白い場所などを作ってるだけだった。ジャン・ヴァルジャンは器物にぶっつからないようにしながら用心して足を
前へ
次へ
全320ページ中110ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング