。空には何物もない。
彼は歎願する、大海と波と海草と岩礁とに向かって。しかしそれらは耳を貸さない。彼は暴風に向かって切願する。しかし自若たる暴風はただ無限のものの命に従うのみである。
彼の周囲には、暗黒と、靄《もや》と、寂寞《せきばく》と、強暴にして無心なる騒擾《そうじょう》と、怒れる波の定まりなき高低。波のうちには、恐怖と疲労。彼の下には、奈落《ならく》の底。身をささうべき一点もない。彼は際限なき暗黒のうちにおける死屍《しかばね》の盲《めし》いたる冒険を考える。底なき寒さは彼を麻痺《まひ》する。彼の両手は痙攣《けいれん》し、握りしめられ、そして虚無をつかむ。風、雲、旋風、疾風、無用の星! いかにすべきぞ。絶望したる者は身を投げ出し、疲弊したるものは死を選ぶ。彼はなさるるままに身を任せ、運ばるるままに身を任せ、努力を放棄する。そして今や彼は、呑噬《どんぜい》の痛ましい深淵のうちに永久にころがり込む。
おお人類社会の厳酷なる歩み! 進行の途中における多くの人々および魂の喪失! 法律が投げ落とすすべてのものの陥る大洋! 救助の悲しき消滅! おお精神上の死!
海、それは刑罰がそれを受けたる者を投ずる社会的の酷薄なる夜である。海、それは際涯なき悲惨である。
人の魂は、この深淵のうちに流れ込むとき死屍《しかばね》となる。だれかそれを甦《よみがえ》らするであろうか。
九 新たな被害
徒刑場から出る時がきたとき、ジャン・ヴァルジャンが汝は自由の身となった[#「汝は自由の身となった」に傍点]という不思議な言葉を耳に聞いたとき、その瞬間は嘘《うそ》のようで異常なものに思われた。強い光明の光、生ける者の真の光明の光が、にわかに彼のうちにはいってきた。しかしその光はやがて間もなく薄らいだ。ジャン・ヴァルジャンは自由のことを考えて眩惑《げんわく》していた。彼は新しい生涯を信じていた。がすぐに彼は、黄いろい通行券をつけられたる自由の何物であるかを見た。
またそれにつれて多くの不快があった。彼は徒刑場にいた間に積み立てた金が百七十一フランには上るであろうと勘定をしておいた。日曜と祭日との定められた休業は十九年間に約二十四フランの減少をきたしたことを、彼が勘定に入れるのを忘れたのは、ここに付言しておかなければならない。がそれはそれとして、積立金は種々の場合の引去高によ
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