《ふうゆ》などをいたさないその思いやりの深い態度のうちにこそ、本当に伝道的な何物かがあるのではありませんでしょうか。そして人が心の痛みを持つ時には、少しもそれに触れないようにするのが最もいいあわれみではないでしょうか。兄の内心の考えもそこにあったに違いないように私には思われました。けれども、いずれにせよ、私のここに断言し得ますことは、たとい兄がそういう考えを持っていましたとしても、兄は私に対してさえそういう素振りを少しも見せなかったことであります。兄はどこまでもいつもの晩と同じようでありました。そして、牧師会長のジェデオン氏やまたは教区のある司祭と会食する時と全く同じような様子と仕方とで、ジャン・ヴァルジャンと食事をともにいたしました。
食事の終わりに無花果《いちじく》を食べていました時に、だれか戸をたたきました。それはジェルボー婆さんが子供を抱いてきたのでありました。兄は子供の額《ひたい》に接吻《せっぷん》しまして、それからジェルボー婆さんにやるために私が持ち合わしていた十五スーを借りました。その間、あの男は別に注意もいたしていませんでした。もう一言も口をきかないで、大変疲れているように見受けられました。あわれなジェルボー婆さんは立ち去りました。兄は食後の祈祷をしまして、それから男の方へ向いて、きっともうお寝《やす》みになりたいんでしょう、と言いました。マグロアールは急いで食器を片付けました。旅人を静かに眠らせるために室に退くべきだと私は存じまして、マグロアールと二人で二階の室へ上がりました。けれどもすぐそのあとで、私はマグロアールに、私の室にありましたフォレー・ノアールの鹿《しか》の皮を男の寝床に持たしてやりました。夜は凍るように寒くありますが、それで暖まれましょう。ただ残念なことには、その皮はもう古くて毛がすっかりなくなっています。それは、兄がダニューブ河の水源近くのドイツのトットリンゲンに居ました頃、私が食卓で使っています象牙《ぞうげ》柄の小さなナイフといっしょに、買ってきてくれたものであります。
マグロアールは、すぐにまた二階へ戻ってきました。私どもは、洗たく物をひろげる室で神を祈り初めました。それから二人とも一言も交じえないでおのおの自分の室に退きました。
五 静穏
ビヤンヴニュ司教は妹に晩の別れを言った後、テーブルの上の二つの銀の燭
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