光景を痛感するほどの知力や精神の微妙な習慣を少しも持ってはいなかった。けれども、今見るその空、その丘、その平野、その樹木、それらのうちには何か深いわびしさがこもっていたので、彼はちょっと立ち止まって思いに沈んだが、突然|踵《くびす》をめぐらした。自然さえも、敵意を有するらしく思える瞬間があるものである。
彼はまた戻って来た。ディーニュの市門はもう閉ざされていた。ディーニュ市は、宗教戦争のおり長く包囲をささえた所であって、後にこわされてしまったが、一八一五年にはなおその周囲に、方形の塔がついてる古い城壁があったのである。彼はその城壁の破れ目を通ってまた町の中にはいった。
もうたぶん晩の八時くらいになっていたろう。彼は町の様子を知らないので、再びただむやみに歩き出した。
そのようにして彼は県庁の所にき、それから神学校の所まできた。大会堂の広場を通る時には、彼は会堂に対して拳《こぶし》をさしつけた。
その広場の角に印刷屋があった。エルバ島から持ちきたされ、ナポレオン自身の口授になった、皇帝の宣言及び軍隊に対する親衛の宣言が初めて印刷せられたのは、そこにおいてであった。
全く疲れはててもはや何らの望みもなく、彼はただ、その印刷所の門口にあった石の腰掛けの上に身を横たえた。
その時、一人の年老いた女が会堂から出てきた。彼女はやみのうちに横たわってるその男を認めた。「あなたはそこで何をしていますか、」と彼女は言った。
彼は荒々しくそして怒って答えた。「親切なお上《かみ》さんだな、私は御覧のとおり寝ているんですよ。」
実際親切なお上さんという名前に至当な彼女は、R某侯爵夫人であった。
「この腰掛けの上で?」と彼女は言った。
「私は十九年の間木の寝床に寝起きしたのです。」と男は言った。「今日は石の寝床の上に寝るんです。」
「あなたは軍人だったのですか。」
「そうですよ、軍人です。」
「なぜ宿屋へお出でなさらないのです。」
「金がありませんから。」
「困りましたね、」とR夫人は言った。「私は今四スーきり持ち合わせがありませんが。」
「いいからそれを下さい。」
男は四スーを受け取った。R夫人は続けて言った。「そればかりでは宿屋には泊まれませんでしょう。ですがあなたは宿屋に尋ねてみましたか。そんなふうに一晩を過ごすことはできるものではありません。きっと寒くて、また腹もお
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