ろうか? それを彼はみずからはっきり知っていたのだろうか。それは彼が信じたがってるように、生々たる顔をした思い出が飛び出してくるのを見る恐怖だったろうか。あるいはさらに悲しいことには、思い出が死んでしまってるのを見出す恐怖だったろうか……。この新たな喪の悲しみにたいして、本能の半ば無意識的な策略がたてられていた。そのために彼は――(おそらく自分でもそれとは気づかなかったろうが)――昔住んでいた町から遠い所に宿を選んでいた。そして、初めて街路を散歩したとき、管絃楽の下稽古《したげいこ》を指揮しに音楽会場へやって行かねばならなかったとき、パリーの生活と接触したとき、彼はなおしばらくの間はみずから眼をふさぎ、眼につくものを見まいとし、昔見たものだけをしか断じて眼に入れまいとした。彼は前もってみずから繰り返し言った。
――俺《おれ》はそれを知っている、俺はそれを知っている……。
芸術界は政治界と同じく、昔ながらの偏狭な無政府状態だった。広場の上には同じ市《いち》が立っていた。ただ役者がその役目を変えてるだけだった。往時の革命者らは俗流の人となっていた。往時の超人らは流行児となっていた。昔の独立者らは現在の独立者らを窒息させようとしていた。二十年前の青年らは今はもう、昔彼らが攻撃していた老人らよりもいっそうはなはだしい保守者となっていた。そして彼らの批評は新進者らへ生きる権利を与えまいとしていた。表面上昔と何一つ異なってはいなかった。
しかも実はすべてが変わってしまっていた……。
わが友よ、お許しください。無音で過ごしたことをおとがめもなさらぬ御好意を感謝します。御手紙をほんとにうれしく存じました。私は恐ろしい混乱のうちに数週間を送りました。すべてが私に欠けていました。あなたからは別れてしまい、またこの地では、知人らを失ったあとの恐ろしい空虚が控えていました。あなたにお話しした旧友たちはみないなくなっていました。フィロメール――(宴会の群集の間をうろついてるうちに、私をながめてるあなたの眼に鏡の中で出会った、あの寂しいまたなつかしい晩、歌をうたった彼女の声を、あなたは覚えていられましょうね)――あのフィロメールは、自分の穏当な夢想を実現していました。少しばかりの遺産を受けて、今はノルマンディーに行っています。田地を少し持って、自分でそれを管理しています。アルノー氏は隠退していました。アンゼールに近い故郷の小さな町に、夫婦してもどっています。私がここにいた当時の有名な人たちは、たいてい死ぬか没落するかしています。ただ幾人かの老|案山子《かがし》どもが、二十年前に芸術や政治上の一流新進者を気取っていた者どもが、同じ贋物《にせもの》の顔つきで今日もまだいばっています。そういう仮面の連中以外には、私が見覚えのある者はだれもいませんでした。彼らは墳墓の上で渋面してるような感じを私に与えました。それは実に嫌《いや》な感情でした。――その上、当地へ着いてしばらくの間、あなたの国の金色の太陽の光から出て来た私は、事物の醜さを、北方の灰色の光を、肉体的に苦しみました。どんよりした色の家並み、ある穹窿《きゅうりゅう》や堂宇の線の凡俗さ、今まで私の気に止まらなかったそれらのものが、ひどく私の気持を害しました。精神上の雰囲気《ふんいき》も私には、それに劣らず不愉快なものでした。
それでも、私はパリー人について不平を言うべき廉《かど》はありません。私が受けた待遇は昔受けたそれとは似てもつかないものでした。私は、不在のうちに、有名らしい者になったかのようです。これについては何も申しますまい。私は有名ということの価値を知っていますから。この連中が私について言ったり書いたりしてくれる親切な事柄は、私の心を動かします。私は彼らに感謝しています。しかしなんと申したらいいでしょうか? 私は現在私をほめてる人々によりも、昔私を攻撃していた人々のほうに、より近しい気がするのです……。その罪は私にあるのです。自分でもそれを知っています。私をしからないでください。私はちょっと困惑を覚えました。そんなことは予期していなければならなかったことです。でも今では済んでしまいました。私は了解しました。そうです、あなたが私を人中に立ちもどらせたのは至当なことでした。私は孤独のうちに埋もれかかっていたのです。ツァラトゥストラの真似《まね》をするのは不健全なことです。生の波は過ぎ去ります、われわれのもとから過ぎ去ります。もはや沙漠《さばく》にすぎなくなる時期が来ます。河流の所まで砂中に新しい水路を掘るには、幾日も労苦しなければなりません。――そのことも済みました。私はもう眩暈《めまい》を覚えません。流れを結び合わせてしまったのです。私はながめてそして悟っています……。
わが友よ、この
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