はるかな青い丘陵が、美《うる》わしいアルバーノの山の続きが、鼓動してる心臓のように静かにふくらんでいた。ローマ人の夫婦墓が道に沿って並んでいて、その憂わしい顔と忠実な握手とを、木の葉がくれに示していた。二人は並木道のつきる所に、白い石棺を背にして、薔薇の青葉|棚《だな》の下にすわった。前方には寂しい野が開けていた。深い平和だった。懶《ものう》さに息もたえだえになってるかのような泉が、ゆるやかに水をたれてささやいていた……。二人は小声で話し合った。グラチアの眼は友の眼の上に信じきって注がれていた。クリストフは自分の生活や奮闘や過去の苦しみを語った。しかしそれらはもう悲しみの色を帯びてはしなかった。彼女のそばに彼女の視線の下にあると、すべてが単純で、すべてがあるべきとおりであった……。彼女のほうでもまた話をした。彼は彼女の言ってることをほとんど耳にしなかった。しかし彼女の考えは一つとして彼に働きかけないものはなかった。彼は彼女の魂と結合していた。彼女の眼で物を見ていた。彼は至る所に彼女の眼を、深い火が燃えている彼女の静かな眼を見てとった。古代の彫像のこわれかけてる美しい顔の中にも、その黙々たる眼の謎《なぞ》の中にも、彼女の眼を見てとった。羊毛のような糸杉のまわりや、光線に貫かれてる黒い光った槲《かしわ》の木立の間に、情を含んで笑ってるローマの空の中にも、彼女の眼を見てとった。
グラチアの眼を通して、ラテン芸術の意義が彼の心に泌《し》み込んできた。今まで彼はイタリーの作品には無関心でいた。この野蛮な理想主義者、ゲルマンの森からやって来た大熊《おおくま》は、蜜《みつ》のような美しい金色の大理石の快味を、まだ味わうことができなかった。ヴァチカン宮殿の古代像は明らさまに彼と相いれなかった。それらの間抜けた顔つき、あるいは柔弱なあるいは鈍重な釣《つ》り合い、平凡な丸っこい肉づき、それらのジトンや角闘者などに、彼は嫌悪《けんお》の念をいだいた。ようやくわずかな肖像彫刻に趣を見出したばかりだった。しかもそのモデルは彼になんらの興味をも起こさせなかった。また蒼白《あおじろ》い渋め顔のフィレンツェ人や、貧血で肺病質で様子振り悩ましげな、病弱な貴婦人、ラファエロ前派のヴィーナスにたいしても、彼はやはりに気むずかしかった。そして、シスチーナ礼拝堂の実例によって世に盛んになった、汗をかいてる赤ら顔の豪傑や闘技者などの動物的な愚鈍さは、彼には肉弾のように思われた。ただ一人ミケランジェロにたいしては、その悲壮な苦悶《くもん》や崇高な蔑視《べっし》や貞節な情熱の真摯《しんし》さなどのために、彼もひそかに敬意をいだいた。その青年らの謹厳な裸体、狩り出された獣のような荒くれた処女たち、悩める曙[#「曙」に傍点]、子供に乳房《ちぶさ》をくわえられてる荒々しい眼つきのマドンナ[#「マドンナ」に傍点]、妻にもほしいような美しいリア[#「リア」に傍点]などを、彼はこの巨匠の愛と同じき純潔粗野な愛をもって愛した。けれども、この苦しんだ偉人の魂の中に彼が見出したのは、ただ自分の魂の拡大された反響にすぎなかった。
ところがグラチアは新しい芸術の世界の扉《とびら》を彼に開いてくれた。彼はラファエロやティツィアーノの崇厳な晴朗さの中に足を踏み入れた。形体の世界を征服し支配して獅子《しし》のように君臨してる古典芸術の天才の堂々たる光輝を彼は見てとった。心の中までまっすぐにはいり込み、生命を覆《おお》うている朦朧《もうろう》たる霧を己《おの》が光輝でつん裂く、この偉大なるヴェネチア人の雷電的な視力――ただに他を征服することばかりではなく、おのれ自身を征服することをも知っていて、勝利者たるおのれにもっとも厳格なる規律を課し、そして戦場においては、打倒されてる敵の遺物のうちから、おのれの戦利品を正確に選み取り持ち去ることを知っている、それらラテン精神の統制的威力――オリンピア的肖像やラファエロのヴァチカン宮殿壁画などは、ワグナーの音楽よりもいっそう豊富な音楽で、クリストフの心を満たした。晴朗な線と高貴な建築と調和せる群集との音楽。顔と手とかわいい足と衣裳と姿態との完全な美に輝いてる音楽。知力と愛。それら青春の魂と身体とから湧《わ》き出る愛の流れ。精神と意志との力。若々しい愛情と、皮肉な知恵と、有情な肉体の悩ましい温かい香りと、影が消え情熱が眠っている輝かしい微笑。日輪の車の馬のように猛《たけ》り立ちながらも主人の穏やかな手に御せられてる生命の、振るいたったる活力……。
そしてクリストフはみずから尋ねた。
――彼らがなしたように、ローマの力と平和とを結合することは不可能であろうか? 現代においてはもっともすぐれた人々も、この両者の一方を望むときにはかならず他の一方をしりぞけている。こ
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