ているが、君たちをとらえることができない。」
「私たちはあなたといっしょにいます。愛《いと》しい人よ、安らかに!」
「私はもう君たちを失いたくない。私はどんなに君たちを捜したろう!」
「心配してはいけません。私たちはもうあなたのもとを離れはしません。」
「ああ、私は流れにさらわれてゆく。」
「あなたを運んでゆく河は、私たちをもあなたといっしょに運んでいるのです。」
「どこへ行くのだろう?」
「私たちが皆いっしょに集まる場所へ行くのです。」
「じきに行きつくかしら?」
「御覧なさい。」
 そしてクリストフは、必死の努力をして頭をもたげ――(ああなんと重いことだったか!)――漫々たる大河を見た。それは野を覆《おお》いながら、ほとんど不動なほどおもむろに厳《おごそ》かに流れていた。水平線のほとりに、鋼鉄の光に似たものがあって、日光に震えてる一筋の銀波が彼のほうへ駆けてくるかと思われた。大洋のとどろき……。彼の心は消え入りながらも尋ねた。
「あれが彼[#「彼」に傍点]か?」
 愛する人たちの声が答えた。
「あれが彼[#「彼」に傍点]です。」
 一方では、死にかかってる頭脳が考えた。
「扉《とびら》が開ける……。私が捜していた和音はここにある……。しかしこれが終局ではないのだな。なんという新たな広さだろう……われわれは明日も存続するだろう。」
 おう喜悦、一生の間努めて奉仕してきた神の崇厳な平和のうちに没し去るの喜悦!……
「主《しゅ》よ、汝の僕《しもべ》にたいしてあまりに不満を感じたもうな。わがなせしところははなはだわずかであった。されどわれはそれ以上をなし得なかった……。われは戦い、苦しみ、さ迷い、創造した。われをして汝のやさしき腕の中に息をつかせたまえ。他日われは新たなる戦いのためによみがえるであろう。」
 そして大河の響きと海のとどろきとは、彼といっしょに歌った。
「汝はよみがえるであろう。休息するがよい。すべてはもはやただ一つの心にすぎない。からみ合った昼と夜との微笑《ほほえ》み。愛と憎悪との厳《おごそ》かな結合、その諧調《かいちょう》。二つの強き翼をもてる神を、われは歌うであろう。生を讃《たた》えんかな! 死を讃えんかな!」

[#ここから3字下げ]
いかなる日もクリストフの顔をながめよ、
その日汝は悪《あ》しき死を死せざるべし。
[#ここで字下げ終わり]

 聖クリストフは河を渡った。夜通し彼は流れに逆らって進んだ。強壮な四|肢《し》をもってる彼の身体は、巌《いわお》のごとく水の上に浮き出している。その左の肩には、か弱い重い小児[#「小児」に傍点]がのっている。聖クリストフは引き抜いてきた松の木に身をささえる。その木は撓《たわ》む。彼の背骨も撓む。彼が出発するのを見た人々は、けっして向こうに着けはしないと言った。そして長い間彼の後ろから、嘲《あざけ》りと笑いとを浴びせた。やがて夜となって、彼らは飽き果てた。もうクリストフは、岸に居残ってる人々の叫び声が届かないほど、遠くに来ている。急流の響きのうちに、小児[#「小児」に傍点]の静かな声が聞こえるばかりである。小児[#「小児」に傍点]はその小さな拳《こぶし》に、巨人クリストフの額の縮れ毛を一|房《ふさ》つかんで、「進め!」と繰り返している。――彼は背をかがめ、眼を前方の薄暗い岸に定めて、進んでゆく。向こう岸の懸崖《けんがい》は白み始める。
 突然、|御告の祈《アンジェリユス》の鐘が鳴る。そして多くの鐘の群れが、一時に躍《おど》りたって眼覚《めざ》める。今や新たなる曙《あけぼの》! そびえ立った黒い断崖《だんがい》の彼方《かなた》から、眼に見えぬ太陽が金色の空にのぼってくる。クリストフは倒れかかりながらも、ついに向こう岸に着く。そして彼は小児[#「小児」に傍点]に言う。
「さあ着いたぞ! お前は実に重かった。子供よ、いったいお前は何者だ?」
 すると小児[#「小児」に傍点]は言う。
「私は生まれかかってる一日です。」
[#地から2字上げ]――了――



底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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