チアか?……彼の心も頭も非常に弱っていた。彼はもう自分の愛する人たちの間の見分けもつかなかった。見分けてどうしょう? 彼は彼らを皆一様に愛していた。
圧倒してくる一種の法悦のうちに、彼はじっと縛られたようになっていた。身を動かしたくなかった。あたかも猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をねらいすますように、苦痛が待ち伏せて窺《うかが》ってることを、知っていた。彼は死人のようにしていた。すでにもう……。室の中にはだれもいなかった。頭の上のピアノの音もやんでいた。静寂……沈黙……。クリストフは溜《た》め息をついた。
「生涯《しょうがい》の終わりに及んで、かつて孤独なことがなかったと、もっとも一人ぽっちのときにも孤独ではなかったと、みずから考えるのはなんといいことだろう!……私が生涯の途上で出会った魂たちよ、一時私に手をかしてくれた同胞たちよ、私の思想から咲き出た神秘な精神たちよ、死者や生者よ――否すべて生者たちよ――おう、私が愛したすべてのものよ、私が創造したすべてのものよ! 君たちは温かい抱擁で私を取り巻いてくれ、私を見守っていてくれる。私には君たちの声の音楽が聞こえる。私へ君たちを授けてくれた運命に祝福あれ! 私は富んでいる、ほんとに富んでいる……。私の心は満たされている!……」
彼は窓をながめた……。陽《ひ》のかげった美しい日だった。老バルザックが言ったように、盲目の美人に似てる日の一つだった……。クリストフは窓の前に差し出てる木の枝を、熱い心でじっと見入った。その枝はむくむくと太っていて、しっとりした若芽が萌《も》え出し、白い小さな花が咲き出していた。そしてそれらの花の中には、それらの若葉の中には、よみがえったその生存の中には、復活の力に恍惚《こうこつ》と身を任せてるさまが見えていたので、クリストフはもはや、自分の息苦しさも死にかかってる惨《みじ》めな身体もすべて感じなくなって、その樹木の枝のうちに生き返った。その生命のやさしい輝きが彼を浸した。それは一つの接吻《せっぷん》に等しかった。あまりに愛に満ちてる彼の心は、彼の臨終のおりに微笑《ほほえ》んでるその美しい樹木に、自分自身を与えてやった。そして彼は、この瞬間にもたがいに愛し合ってる無数の者がいること、自分にとっては臨終の苦悶《くもん》の時間も、他の人たちにとっては恍惚《こうこつ》の時間であること、常にかくのとおりであること、生の力強い喜びはけっして尽きないこと、などを考え浮かべた。彼は息をつまらせながら、もう思うままにならない声で――(おそらく彼の喉《のど》からはなんらの声音も出なかったろうが、彼はそれに気づかなかった)――生にたいする賛歌を歌った。
眼に見えない管弦楽団が彼の歌に答えた。彼は考えた。
「どうして彼らはあんなことを知ってるのだろう? 練習をしたこともないのに。間違えずに最後までやってくれればいいが!」
彼は両腕を振り動かして拍子を取りながら、管弦楽団の全員に見えるようにと、身を起こしてすわろうとした。でも管弦楽団は間違いをしなかった。自分たちの腕前を確信していた。なんという霊妙な音楽だろう! 今や彼らは照応の曲を即興演奏しはじめていた。クリストフは面白くなってきた。
「ちょっと待て、面白い奴《やつ》らだ。俺がみごとにとらえてやる。」
そして彼は水|棹《さお》でぐっと一突きして、舟を気ままに右や左へあやつりながら危険な水路の中へはいっていった。
「どうしてこんな所を乗り越せるのか?……またそんな所を?……そらとらえたぞ!……またもやそんな所へ?」
彼らはいつもうまく乗り越していった。彼の大胆さに対抗して、さらにいっそう危険な冒険をした。
「何をしでかすことやらわからない。狡猾《こうかつ》な奴らめ!……」
クリストフは喝采《かっさい》の声をあげまた大笑いをした。
「畜生! あとについてゆくのがむずかしくなってきたぞ! 俺のほうが負かされるかしら……。おい冗談じゃないぞ! 今日俺は疲れてるんだ……。なに構うものか。君らが最後の勝利を占めるとはきまってやしない……。」
しかしその管弦楽団はいかにも豊麗ないかにも新しい幻想曲《ファンタジア》を演奏しだしたので、ぼんやり口を開いて聞いてるよりほかにもうしかたがなかった。聞いてると息がつまるほどだった……。クリストフは自分を憐《あわ》れんだ。
「馬鹿め!」と彼は自分に言った、「貴様は空《から》っぽになったのか。黙っちまえ! できるだけの音を出してしまった楽器め。もうこの身体にはたくさんだ。俺にはもっと別な身体が必要だ。」
しかし身体は彼に意趣返しをした。ひどい咳《せき》の発作が起こって彼の聴くのを妨げた。
「黙らないか!」
彼は敵をでも取り拉《ひし》ごうとするかのように、自分の喉首をとらえ、拳固《げんこ》で自
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