声の抑揚だったか、それを彼は覚えなかった。しかしそのときは、橄欖樹《オリーヴ》に覆《おお》われた四方の丘、濃い影と強い日光とにくっきり浮き出されてるアペニン連山の高い光った頂、香橙《オレンジ》の林、海の深い呼気など、周囲のすべてのものから、女の友のにこやかな顔が輝き出した。空気の無数の眼によって、彼女の眼は彼をながめていた。あたかも薔薇《ばら》の木から一輪の花が咲き出すように、彼女はその土地から咲き出していた。
そこで彼は、ふたたびローマ行きの汽車に乗ってどこにも降りなかった。イタリーの追憶にも過去の芸術の都にもさらに興味がなかった。ローマでも、何にも見なかったし、何にも見ようとはしなかった。そして通りがかりに最初見てとったもの、無様式な新しい街衢《がいく》や四角な大建築などは、もっとローマを知りたいとの念を起こさせはしなかった。
到着するとすぐに彼はグラチアのところへ行った。彼女は彼に尋ねた。
「どこを通っていらしたんですか。ミラノやフィレンツェにお寄りになりましたか。」
「いいえ。」と彼は言った。「寄ってどうするんです?」
彼女は笑った。
「面白い御返辞ですこと! ではローマをどうお思いになりますか。」
「なんとも思いません。」と彼は言った。「まだ何にも見ていませんから。」
「それでも……。」
「何にも見なかったんです、記念の建物一つも。旅館からまっすぐにあなたのところへ来ましたから。」
「ちょっと歩けばローマは見られますよ……。あの正面の壁を御覧なさい……そこに当たってる光を見さえすればいいんですよ。」
「私はあなただけを見てるんです。」と彼は言った。
「ほんとにあなたはわからない人ですね、ご自分の考えしか見ていらっしゃらないんですね。そして何時《いつ》スイスをお発《た》ちになりましたの。」
「一週間前です。」
「では今まで何をしていらしたんですか。」
「知りません。偶然海岸のある地に止まったんです。どういう所だか注意もしませんでした。一週間眠っていました。眼を開いたまま眠っていたんです。何を見たか自分でも知りません、何を夢みたか自分でも知りません。ただあなたのことを夢みたようです。たいへん愉快だったことを知っています。けれどいちばんいいことには、何もかも忘れました……。」
「ありがとう。」と彼女は言った。
(彼はそれを耳に入れなかった。)
「……何もかも、」と彼は言いつづけた、「そのときあったことも、前にあったことも、すっかり忘れてしまいました。私はふたたび生き始めた新しい人間のようになっています。」
「ほんとうにそうですわ。」と彼女はにこやかな眼で彼をながめながら言った。「この前お目にかかったときからすっかりお変わりなさいましたね。」
彼もまた彼女をながめた。そして記憶の中の彼女とやはり異なってるように思った。けれども彼女は二か月前と変わってるのではなかった。ただ彼がまったく新しい眼で彼女を見てるのだった。彼方《かなた》スイスでは、昔のころの面影が、年若いグラチアの軽い影が、彼の眼と眼前の彼女との間に介在していた。ところが今では、北方の夢はイタリーの日の光に融《と》かされていた。彼は白日の光の中に、恋人の実際の魂と身体とを見た。パリーにとらわれてた野の仔山羊《こやぎ》とは、また、彼女の結婚後間もなくある晩出会ってやがて別れたおりの、聖ヨハネみたいな微笑《ほほえ》みをしてる若い女とは、彼女はいかに違ってたことだろう! ウンブリアの小さな娘から、美しいローマ婦人の花が咲きだしていた。
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真の色艶[#「真の色艶」に傍点]、堅固なる瑞々しき身体[#「堅固なる瑞々しき身体」に傍点]。
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その姿体は調和のとれた豊満さをそなえていた。その身体は高慢な懶《ものう》さに浸っていた。静安の天性が彼女を包んでいた。北方人の魂がけっしてよく知り得ないような、日の照り渡った静寂と揺《ゆる》ぎない観照とをむさぼる性質をそなえており、平和な生活を官能的に享楽する性質をそなえていた。彼女が昔どおりになお持ってたものは、ことにその大なる温良さであって、それが他のあらゆる感情の中にまで織り込まれていた。しかし彼女の晴れやかな微笑《ほほえ》みのうちには、新たないろんなものが読みとられた。ある憂鬱《ゆううつ》な寛大さ、多少の倦怠《けんたい》、一抹の皮肉、穏和な良識など。彼女は年齢のためにある冷静さを得ていて、心情の幻にとらわれることがなく、夢中になることがあまりなかった。そして彼女の愛情は、クリストフが押えかねてる情熱の激発にたいして、洞察《どうさつ》的な微笑を浮かべながらみずから警《いまし》めていた。それでもなお彼女は、弱々しい点もあり、日々の風向きに身を任せることもあり、一種の嬌態《きょうたい
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