も、」と彼は言いつづけた、「そのときあったことも、前にあったことも、すっかり忘れてしまいました。私はふたたび生き始めた新しい人間のようになっています。」
「ほんとうにそうですわ。」と彼女はにこやかな眼で彼をながめながら言った。「この前お目にかかったときからすっかりお変わりなさいましたね。」
 彼もまた彼女をながめた。そして記憶の中の彼女とやはり異なってるように思った。けれども彼女は二か月前と変わってるのではなかった。ただ彼がまったく新しい眼で彼女を見てるのだった。彼方《かなた》スイスでは、昔のころの面影が、年若いグラチアの軽い影が、彼の眼と眼前の彼女との間に介在していた。ところが今では、北方の夢はイタリーの日の光に融《と》かされていた。彼は白日の光の中に、恋人の実際の魂と身体とを見た。パリーにとらわれてた野の仔山羊《こやぎ》とは、また、彼女の結婚後間もなくある晩出会ってやがて別れたおりの、聖ヨハネみたいな微笑《ほほえ》みをしてる若い女とは、彼女はいかに違ってたことだろう! ウンブリアの小さな娘から、美しいローマ婦人の花が咲きだしていた。

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真の色艶[#「真の色艶」に傍点]、堅固なる瑞々しき身体[#「堅固なる瑞々しき身体」に傍点]。
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 その姿体は調和のとれた豊満さをそなえていた。その身体は高慢な懶《ものう》さに浸っていた。静安の天性が彼女を包んでいた。北方人の魂がけっしてよく知り得ないような、日の照り渡った静寂と揺《ゆる》ぎない観照とをむさぼる性質をそなえており、平和な生活を官能的に享楽する性質をそなえていた。彼女が昔どおりになお持ってたものは、ことにその大なる温良さであって、それが他のあらゆる感情の中にまで織り込まれていた。しかし彼女の晴れやかな微笑《ほほえ》みのうちには、新たないろんなものが読みとられた。ある憂鬱《ゆううつ》な寛大さ、多少の倦怠《けんたい》、一抹の皮肉、穏和な良識など。彼女は年齢のためにある冷静さを得ていて、心情の幻にとらわれることがなく、夢中になることがあまりなかった。そして彼女の愛情は、クリストフが押えかねてる情熱の激発にたいして、洞察《どうさつ》的な微笑を浮かべながらみずから警《いまし》めていた。それでもなお彼女は、弱々しい点もあり、日々の風向きに身を任せることもあり、一種の嬌態《きょうたい
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