に服従させられた。
 そしてクリストフは書きに書いた。幾日も幾週間も書きつづけた。精神が充実してただ自分だけで自分を養うことができ、ほとんど説きがたい仕方で製作しつづける、そういう時期があるものである。事物とのもっとも微細な接触だけで、風にもたらされる花粉だけで、すでに内部の萌芽は、無数の萌芽《ほうが》は、頭をもたげる……。クリストフは考えるだけの隙《ひま》がなく、生きるだけの隙がなかった。生の廃墟の上に、創造的魂が君臨していた。

 そしてつぎに、それがやんだ。クリストフはそこから出て、砕かれ、焼かれ、十年も老《ふ》けていた――しかし救われていた。彼はクリストフを打ち捨てて、神の中に移り住んだのだった。
 多くの白髪が、九月の一夜に秋の花が牧場に萌《も》え出すごとく、黒い髪の中に突然現われていた。新たな皺《しわ》が頬《ほお》に刻まれていた。けれども眼はふたたび平静を得ており、口は忍諦《にんてい》の様子になっていた。彼は和らげられたのだった。彼は今や了解した。もろもろの世界を動かしてる力[#「力」に傍点]の恐るべき拳《こぶし》の下における、自分の高慢の空しさを、人間の高慢の空しさを、了解した。だれも確実に自己の主ではない。夜を徹して警戒しなければいけない。もし眠るならば、その力がわれわれのうちに飛び込んできて、われわれを運び去ってゆく……。しかもいかなる深淵《しんえん》の中へであるか! あるいはまた、その奔流は引き去って、われわれを乾燥した河床の中に取り残す。闘争せんがためには、ただ意欲するだけでは足りない。欲するときに、また欲する場所に、愛や死や生を吹き起こす不可知なる神、その前にひれ伏さなければいけない。人間の意志はこの神の意志なしには何もなし得ない。神はただ一瞬のうちに、多年の勤労と努力との結果を消滅させ得る。そしてもし欲するならば、泥濘《でいねい》から永遠なるものを湧出《ゆうしゅつ》させ得る。創作する芸術家ほど、神の意のままであることを深く感ずる者はない。芸術家にして真に偉大であるならば、神霊[#「神霊」に傍点]の口授することをしか口にしないからである。
 そしてクリストフは、毎朝ペンを執る前に跪拝《きはい》した老ハイドンの知恵を理解した。……戒心し祈れよ。われわれとともにいますよう神を祈れよ。生の神霊[#「神霊」に傍点]と愛深き敬虔《けいけん》なる交渉を保てよ。

 夏の終わりごろ。パリーの一友人がスイスを通りかかって、クリストフの隠栖《いんせい》を見出した。そして彼に会いに来た。それは音楽批評家であって、彼の作曲にいつもりっぱな批評をくだした男だった。一人の知名な画家が同伴していた。この画家は音楽好きで、同じくクリストフの賞賛者だった。彼らはクリストフに、彼の作品の顕著な成功を知らした。ヨーロッパの至る所で演奏されてるのだった。クリストフはその消息にあまり興味を示さなかった。彼にとっては過去は滅びていたし、それらの作品はもう物の数でなかった。彼は訪客の求めによって、最近に書いたものを見せた。客はそれを少しも理解しなかった。クリストフが狂人になったのだと考えた。
「旋律《メロディー》もなければ、拍子もなければ、主題の働きもない。一種の流動的な核心、溶解してる物体で、まだ冷めきらずにいて、いかなる形をも取るが、一つの定形もそなえてはいない。他に類のないものだ。渾沌《こんとん》の中の光だ。」
 クリストフは微笑した。
「ほぼそんなものかもしれない。」と彼は言った。「秩序の覆面を通して輝く渾沌の眼[#「秩序の覆面を通して輝く渾沌の眼」に傍点]……。」
 しかし相手はそのノヴァリスの言葉を理解しなかった。
 ――この男は空《から》っぽになったのだ。と彼は考えた。
 クリストフは理解されようとはつとめなかった。
 二人の客が辞し去るとき、彼は少し送っていって、山の景色を見せてやった。しかし遠くまでは行かなかった。牧場を見渡しながら、音楽批評家はパリーの劇場の舞台装飾を話しだした。そして画家のほうは、色調のことを言いだして、色彩の配列がよくないことを容赦なく指摘し、これはスイス趣味であり、ホドラー流の生硬《せいこう》平凡な雑色だとした。そのうえ彼は自然にたいしては、全然|衒《てら》うのでもない冷淡さを高言していた。自然を知らないふうをしていた。
「自然とは、いったいなんだろう? 僕にはわからない。光と色、なるほど結構なものさ。自然なんか、僕は意に介しない……。」
 クリストフは彼らと握手をかわして、立ち去るままに任した。それくらいのことにはもう平気だった。彼らは谷の向こうにいるのだった。それでよいのだった。彼はだれにもこう言いはしなかった。
「僕のところまで来るには、僕と同じ道を取りたまえ。」
 数か月間彼を燃えたたしていた創造の火はもう消えていた。しかし彼はその善き熱をまだ心のうちに保っていた。彼は火がふたたび燃え出すことを知っていた。彼のうちに燃えないとすれば、だれかのうちに燃えるだろう。それはどこにおいてであろうとも、彼がそれを愛することに変わりはないだろう。それは常に同一の火であるから。そして彼は九月の日の夕方、その火が自然全体のうちに広がってるのを感じた。

 彼は自分の家のほうへ上っていった。雷雨のあとだった。もう日が照っていた。牧場からは水蒸気が立っていた。林檎《りんご》樹からは熟した果実が濡れ草の中に落ちていた。樅《もみ》の枝に張られた蜘蛛《くも》の巣はまだ雨滴に輝いてミュケナイの馬車の古風な車輪に似ていた。濡れた森の縁には啄木鳥《きつつき》の鋭い笑声が響いていた。そして無数の小蜂《こばち》が日の光の中で踊りながら、間断なき深い大オルガンの響きを森の丸天井の中いっぱいにたてていた。
 クリストフは森の中の開けた場所に出た。山の一つの襞《ひだ》のくぼみ、四方閉ざされた正しい楕《だ》円形の谷間で、夕陽の光が一面に当たっていた。赤土の地面であって、中央の狭い金色の野には、遅麦《おそむぎ》や錆《さび》色の燈心草が生えていた。周囲はすべて、秋で成熟した森に取り巻かれていた。赤銅《しゃくどう》色の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》、金褐色の栗《くり》、珊瑚《さんご》色の房をつけた清涼茶、小さな火の舌を出してる炎のような桜、橙《だいだい》色や柚子《ゆず》色や栗色や焦げ燧艾《ほくち》色など、さまざまな色の葉をつけてる苔桃《こけもも》類の叢《くさむら》。それはあたかも燃ゆる荊《いばら》に似ていた。そしてこの燃えたつ盆地のまん中から、種子と日光とに酔った一羽の雲雀《ひばり》が舞い上がっていた。
 クリストフの魂はその雲雀のようであった。やがてふたたび落ちること、そしてなお幾度も落ちること、それをみずから知っていた。しかしまた知っていた、下界の人々に天の光明を語ってきかせる歌をさえずりながら、火の中へと撓《たゆ》まずにふたたびのぼってゆくことを。



底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
※「われは堅き金剛石《ダイヤ》…」以下の冒頭の一節は、底本では、楽譜の図版の下に組まれています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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