いた。しかし晩になると、いっしょに音楽をやる習慣がついた。やがては午後にもやりだした。そして日ごとにますます募っていった。いつも同じ不可解な熱情が、初めの和音からすぐに彼女をとらえ、頭から足先まで彼女を燃えたたせ、そして音楽がつづいてる間、このつつましい中流婦人を、倨傲《きょごう》なヴィーナスの神となし、人の魂のあらゆる激情の化身《けしん》となした。
ブラウンは、アンナが突然声楽に熱中しだしたのを驚いたが、そういう女の出来心を説明しようとするだけの労をとらなかった。彼はいつもその小音楽会に臨席し、頭で拍子をとり、自分の意見を述べ、まったく喜びきっていた。それでも実は、もっとやさしい音楽を好んでいた。そんなに力を費やすのは誇張のように思われた。クリストフは空気中に或《あ》る危険を嗅《か》ぎ取っていた。しかし彼は眩暈《めまい》がしていた。通過してきた危機のために弱っていて、抵抗する力がなかった。自分のうちにどういうことが起こってるかを意識しなかったし、アンナのうちにどういうことが起こってるかを洞見《どうけん》しなかった。ある日の午後、熱狂的な情緒に満ちあふれながら、彼女は楽曲の途中で歌いやめ、訳も言わずに室から出ていった。クリストフは彼女を待った。が彼女はもう出て来なかった。三十分ばかりして、彼はアンナの室のそばの廊下を通りかかって、半ば開いてる扉《とびら》から室の奥に彼女を認めた。彼女は冷えきった顔をして、陰鬱《いんうつ》な祈祷《きとう》にふけっていた。
そのうちに、わずかな――ごくわずかな信頼の念が、二人の間に湧《わ》いてきた。彼は彼女に過去のことを話させようとした。彼女はありふれたことしか語らなかった。彼は非常に骨折って、はっきりと個々の事柄を少しずつ聞き出した。そして、ブラウンのごく軽率な好人物的性質のおかげで、その生活の秘奥《ひおう》を垣間《かいま》見ることができた。
彼女はその町の生まれだった。生家の名前ではアンナ・マリア・サンフルといった。父のマルタン・サンフルは、代々伝わった富裕な古い商家の出で、この家系には、階級的な尊大と宗教的な厳格主義とが、実を結んでいた。冒険的気性の彼は、多くの同郷人と同じく、東洋や南アメリカなど遠い所で幾年も過ごした。自家の商業上の利益や知識欲や自分一個の愉快などに駆られて、アジアの中部に大胆な探険を企てたこともあった。かく世界をころげ回りながら、彼はただに苔《こけ》を生《は》やさなかったばかりでなく、自分を包んでいた苔をも、あらゆる古い偏見をも、脱ぎ落としてしまった。そして故郷へもどってきて、熱烈な気質と一徹な精神との彼は、一家の者の激しい抗議を受けながらも、初め情婦として会っていた評判の怪しい近在の百姓娘と結婚した。彼はその美しい娘なしではもう済ませなくなったので、結婚はただ彼女を自分のものとしておくための唯一の方法だった。一家の人々は盛んに異議を唱えたが、それも無駄《むだ》に終わったあとでは、一家の神聖なる権力を認めない彼に向かって、まったく門戸を閉ざしてしまった。町じゅうの者――仲間の精神的品位に関する事柄には、例によって連帯責任を帯びてる態度をとる、相当の人々は皆、この不謹慎な夫婦にたいして、一団となって反対した。世人の偏見に逆らうことは、キリストの信徒の国においてもダライラマの信徒の国におけると同じく、至って危険であるということを、探険家の彼は己が身に悟った。彼は世評を無視し得るほどの強者ではなかった。彼は自分の運命を毀損《きそん》しただけにとどまらなかった。どこにも仕事を見出さなかった。何事も彼には閉ざされてしまった。彼はその苛酷《かこく》な町から加えられる侮蔑《ぶべつ》にたいして、無駄《むだ》な憤慨ばかりして自身を害した。不節制と焦慮とに痛められた健康は、それをもちこたえることができなかった。彼は結婚後五か月にして卒中で死んだ。善良ではあるがしかし気弱で頭の貧しい細君は、結婚後一日として泣かずに暮らしたことはなかったが、夫の死後四か月たって、アンナをこの世に産み落としながら産褥《さんじょく》で死んだ。
マルタンの母親はまだ生きていた。彼女は自分の息子《むすこ》にも、嫁と認めたがらなかったその女にも、彼らの死にぎわにさえ何一つ許さなかった。しかし嫁が亡くなったとき――天の返報が果たされたとき――彼女は子供を引き取って手もとに置いた。彼女は偏狭な信仰をもってる女だった。金持ちでかつ吝嗇《りんしょく》であって、その古い町の薄暗い通りに絹布の店を営んでいた。息子の児を、自分の孫としてよりもむしろ、慈悲心から拾い上げられた孤児であり、その代償として半ば召使たるべき者であるとして、取り扱った。それでも注意深い教育を授けてやった。しかし猜疑《さいぎ》的な厳格さを失わなかった。あたかもその子供を、両親の罪を負ってる者と見なしてるかのようであり、その罪を子供にまでとがめてやまないかのようだった。なんらの娯楽も許さなかった。身振りや言葉や思想に至るまで、すべてその中にある自然なものはみな、一つの罪悪として追い払った。そしてその若い生命の中の喜悦を滅ぼしてしまった。アンナは早くから、退屈な寺院に連れて行かれるのが習慣となり、しかもその退屈を様子に示さないのが習慣となった。彼女は地獄にあるような恐怖にとり巻かれた。彼女の険しい眼瞼《まぶた》の下の幼い眼は、日曜日ごとに、古い大寺院の入り口で、いろんな像の形のもとに、地獄の恐怖を見てとった。身体をねじまげた無作法な像ばかりで、その膝《ひざ》の間には火が燃えたち、腿《もも》には蟇《がま》や蛇《へび》が匐《は》い上がっていた。彼女は自分の本能を押えつけるのに馴《な》れ、自分自身に嘘《うそ》をつくのに馴れた。祖母の手助けをするくらいの年齢になると、朝から晩まで、薄暗い店で働かせられた。彼女は周囲を支配してるいろんな習慣に染《そ》んだ。秩序や偏屈や倹約や無益な不自由などを重んずる精神、退屈しきってる無関心さ、または、生来宗教的でない人々のうちに宗教的信仰がもたらす自然の結果たる、人生にたいする軽蔑《けいべつ》的な陰鬱《いんうつ》な観念、などに染んだ。彼女は老祖母の眼にさえ誇張的だと見えたほど、信心に凝り固まった。やたらに断食や苦行を行なった。あるときなんかは、針のついた胸衣を着てみたこともあった。身を動かすごとに針が身体にささった。彼女は真蒼《まっさお》になった。しかし人々にはその理由がわからなかった。しまいに彼女は気絶しかけたので、医者が呼び迎えられた。彼女は診察されるのを拒んだ――(男の前で着物をぬぐくらいならむしろ死ぬほうがよかった)――けれどついに白状した。そして医者から激しく叱《しか》りつけられたので、もうふたたびしないと約束した。祖母はいっそう安全にするために、それ以来彼女の身支度を検査することにした。アンナはそういう苦行において、人が想像するような神秘な快楽を覚えてはいなかった。彼女はあまり想像力が豊かでなく、アッシジのフランシスや聖テレサなどの詩は理解できなかったろう。彼女の信心は陰気で物質的だった。彼女が我と我が身を苦しめるのは、来世に期待してる幸運のためにではなく、自分自身にたいする残忍な嫌悪の情からであって、みずからおのれを苦しめてほとんど意地悪い快楽を覚えてるのだった。ただ一つ例外として不思議なことには、祖母と同じく冷酷な彼女の精神は、どれほどの深さまでかは自分にもわからなかったが、音楽にたいして開かれていた。彼女は他の芸術には盲目だった。生涯《しょうがい》中に一枚の絵画もよくながめたことがないほどだった。造形美にたいしてはなんらの感覚ももたないらしかった。尊大な故意の無関心さで趣味を欠いていた。美しい身体の観念は、彼女には裸体の観念をしか呼び起こさなかった。言い換えれば、トルストイが語ってる百姓におけるがように、嫌悪《けんお》の感情をしか呼び起こさなかった。そうした嫌悪の情がアンナにはことに強かったわけは、自分の気に入った人たちとの関係において、審美的批判の穏やかな印象よりも、欲望の暗黙な針のほうをより多く、人知れず見てとっていたからである。彼女は自分自身の美貌《びぼう》については、自分の抑圧されてる本能の力についてと同じく、少しも気づいてはいなかった。否むしろ、それに気づこうとはしなかった。そして内心を偽る習慣によって、おのれを欺くことができたのだった。
ブラウンはある結婚の宴会で彼女と出会った。彼女がそういう席に列してるのは例外だった。なぜなら、素性のよくないために引きつづき悪評をになっていて、ほとんど招待を受けたことがなかったのである。彼女は二十二歳になっていた。ブラウンは彼女に注目した。と言って彼女のほうから、彼に注目されようとつとめはしなかった。食卓で彼のそばにすわって、ぎこちない栄《は》えない様子をして、口を開いて話そうともほとんどしなかった。しかしブラウンは食事中、たえず彼女と話しつづけて、言い換えれば一人で話しつづけて、心酔しながら帰ってきた。彼はありふれた洞察《どうさつ》力によって、隣席の娘の初心な純潔の様子に心を打たれたのだった。彼女の良識と沈着とに感心したのだった。また彼女のりっぱな健康と彼女がもっていそうに思われる堅実な主婦的特長とを尊重した。彼はその祖母を訪問し、それを繰り返し、結婚の申し込みをし、そして承諾された。嫁入り財産はなかった。サンフル老夫人は商業上の仕事のために、家の財産をすべて町に遺贈してしまっていた。
この若い細君は、いかなるときも夫にたいして愛情をいだいたことがなかった。愛情などという考えは、正直な生活においては問題とすべきものではなく、むしろ悪いこととして遠ざくるべきものである、というように彼女には思われた。しかし彼女はブラウンの温情の価値を知っていた。怪しい素性にもかかわらず結婚してもらったことを、それと様子には示さなかったが心に感謝していた。そのうえ彼女は、夫婦生活の体面に関する強い感情をもっていた。結婚して七年にもなるのに、彼らの結合は何からも乱されはしなかった。彼らは相並んで生活し、少しもたがいに理解せず、しかもそんなことに少しも気をもまなかった。世間の眼から見れば、模範的な世帯の見本だった。彼らはあまり外出しなかった。ブラウンはかなり多くの患家をもっていたが、そこに妻を受けいれさせることができなかった。彼女は人から喜ばれなかった。そして出生の汚点がまだすっかりは消えていなかった。アンナのほうでも、受けいれられるための努力を少しもしなかった。自分の幼年時代を悲しいものとなした他人の軽蔑《けいべつ》にたいして、恨みの念をいだいていた。それから彼女は世間に出て窮屈な思いをしてきて、人に忘られることを悲しみはしなかった。彼女は夫の関係上やむを得ない方面だけ、訪問したり訪問されたりしていた。訪れてくる女たちは、好奇心の強い悪口好きの下等な中流人だった。彼女らの饒舌《じょうぜつ》はアンナには少しも興味がなかった。彼女は自分の無関心さを隠すだけの労もとらなかった。それこそ許されないことだった。かくて訪問客はまれになってき、彼女は一人ぽっちになった。それが彼女の望むところだった。彼女がくり返し味わってる夢想を、また彼女の肉体の人知れぬどよめきを、もう何物も乱しに来ようとはしなかった。
数週間以来、アンナは苦しんでるようだった。顔は肉が落ちてきた。クリストフやブラウンの前を避けた。自分の室にこもって日々を過ごした。一人考えに沈んでいた。話しかけられても返辞をしなかった。ブラウンは例によって、女のそういう気まぐれをあまり気にかけなかった。そしてそれをクリストフに説明してやるほどだった。女から騙《だま》されるときまってるたいていの男と同様に、彼も女というものをよく知ってると自惚《うぬぼ》れていた。そして実際かなりよく知っていた。がそれはなんの役にもたたないのである。女はしばしば頑固《がんこ》な夢想や執拗《しつよう》な敵対的な沈黙などの発作を起こすものだ、ということ
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