に役だっていた。暴力と正義とは共に、人類の群れを導く盲目確実な力の筋書きの一部をなしていた……。

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 主《しゅ》に呼ばわれたる爾《なんじ》ら、爾らのいかなるものなるやを考えみよ。肉よりすれば、爾らのうち多くの賢き者なく、多くの強き者なく、多くの尚《たか》き者あるなし。されど主は、賢き者を惑わしめんがために、この世の愚かなることどもを選みたまえり。強き者を惑わしめんがために、この世の弱きことどもを選みたまえり。今あることどもを廃《すた》れしめんがために、この世の卑しきことどもと、蔑《さげす》まれしことどもと、あるなきことどもとを選みたまえり……。
[#ここで字下げ終わり]

 とは言え、事物を統ぶる主が何物であろうとも――(理性[#「理性」に傍点]であろうともあるいは没理性[#「没理性」に傍点]であろうとも)――また、産業革命主義によって準備されたる社会組織が、将来のために一つの相対的遊歩を建設しているとしても、新世界を開きもしないこの卑俗なる戦いのうちに、幻影と献身との全力を注ぎ込むのは、クリストフや自分にとって労に価することであるとは、オリヴィエは考えなかった。革命にたいする彼の神秘な希望は裏切られた。彼には民衆が他の階級よりより良きものだとは思えなかったし、より真面目《まじめ》だともほとんど思えなかった。ことに民衆も他の階級と大して異なってはいなかった。
 利益と泥《どろ》まみれの熱情との激流のさなかにあって、オリヴィエの眼と心とは、あたかも水上の花のように彼方《かなた》此方《こなた》に浮き出してる、独立せる人々の小島のほうへ、ほんとうに信じてる人々の小さな群れのほうへ、ひきつけられるのであった。優秀者は群集の中に交わることを、いかに欲しても駄目である。優秀者は常に優秀者のほうへ行くものである――あらゆる階級とあらゆる党派との優秀者のほうへ――火をもってる人々のほうへ。そして、その火が消えないように監視することこそ、神聖なる義務である。
 オリヴィエはすでに選択をしてしまっていた。

 彼の家から数軒隔たった所に、街路より少し低い所に、古靴屋《ふるぐつや》の店があった――店と言っても、数枚の板を釘《くぎ》付けにして、ガラスやガラス代わりの紙が張ってあった。街路から三段降りて中にはいるようになっていて、中では背をかがめなければ立っておれなかった。一つの古靴|棚《だな》と二つの腰掛とを並べるだけの場所しかなかった。昔からの古靴屋の例によって、ここの主人も歌を歌ってるのが毎日聞こえた。彼は口笛を吹いたり、古靴の底をたたいたり、俗歌や革命歌を嗄《しわが》れた大声で歌ったり、通りかかる近所の女どもを窓越しに呼びかけたりしていた。翼の折れた一羽の鵲《かささぎ》が、ぴょこぴょこ人道を飛び歩いて、門番小屋のほうから彼のところへやって来た。そして店の入り口の階段のいちばん上に立ち止まって、古靴屋をながめた。古靴屋はちょっと仕事の手を休めて、甲高い声で卑猥《ひわい》なことを言いかけたり、万国労働歌[#「万国労働歌」に傍点]を口笛で吹いてきかしたりした。鵲は嘴《くちばし》をもたげて、真面目《まじめ》くさった様子で聞いていた。そしてときどき、挨拶《あいさつ》でもするように嘴をつき出して水潜りめいた動作をし、そしてまた身体の平均をとるために無器用な羽ばたきをした。それから突然向きをかえ、相手が何か言いつづけてるのをそのままにして、一方の翼と他方の折れ残りの翼とで、腰掛の倚木《よりき》の上に飛び上がり、そこから近所の犬どもをからかった。すると古靴屋はまた靴の甲革《こうかわ》をたたき始めて、相手が逃げていったのも構わずに、途切れた先刻の話を終わりまで語りつづけた。
 彼は五十六歳だった。元気な気むずかしい様子、太い眉《まゆ》の下の冷笑的な小さな眼、蓬髪《ほうはつ》の上に卵形にもち上がってる禿《は》げた脳天、毛むくじゃらの耳、ひどく笑うときには井のようにうち開く前歯のぬけた黒い口、靴墨で真黒な太い鋏《はさみ》でよく手いっぱい刈り取っている逆立った汚《きたな》い髯《ひげ》。彼は町内では、フーイエ親父《おやじ》だのフーイエットだのラ・フーイエットお父《とっ》つあんだのという名で知られていた――怒らせるためにはラ・ファイエットと呼ばれた。というのは、この老人は政治上では過激思想にとらわれていた。ごく若いころパリー臨時政府に関係したことがあって、死刑を宣告されたがあとで流罪に処せられたのだった。彼は過去の思い出を自慢にしていて、バダンゲやガリーフェやフートリケなどをいっしょにして恨んでいた。彼は革命者らの会合につとめて出て来て、コカールに惚《ほ》れ込み、コカールがみごとな髯と雷のような声とで予言する復讐《ふくしゅう》観念に魅せられていた。
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