あまり知らなかった。しかし知ってる事柄についても知らない事柄についても、等しく確信をいだいていた。種々の空想的理想、正しい観念、無知な考え、実際的精神、偏見、経験、有産階級にたいする猜疑《さいぎ》的な憎悪、などをもっていた。さりとてクリストフを歓迎しないではなかった。知名の芸術家から交際を求められてるのを見て、彼の自尊心は喜ばせられた。彼は首領的な人物であって、労働者らにたいしてはなんとしても圧倒的にならざるを得なかった。完全な平等を真心から欲してはいたけれど、自分より目下の人々にたいするときよりも、目上の人々にたいするときのほうが、いっそう容易にそれを実現していた。
クリストフは労働運動の他の首領らにも出会った。首領らの間には大なる同感は流れていなかった。共同の闘争は、実行運動の合一を――ようやくにして――きたさしめてはいたものの、心の合一をなかなかきたさしめてはいなかった。階級の区別などはまったく外見的な一時の現実にすぎないことが、よく見てとられた。古来からの種々の敵対は、ただ一時延期されて隠されてるのみであって、どれもみな存続していた。そこには北方人と南方人とがいて、たがいに根深い蔑視《べっし》をいだき合っていた。各職業はそれぞれ他の給金を嫉《ねた》み合っていて、自分こそ他よりもすぐれてるものであるという露《あら》わな感情で見合っていた。しかし大なる差異は、各個人の気質の差異であった――将来も常にそうであろう。狐《きつね》や狼《おおかみ》や角のある家畜、鋭い歯牙《しが》をもった動物や非凡な胃袋をもった動物、食うためにできてる動物や食われるためにできてる動物、それらが、偶然の階級と共同の利益とでいっしょに集まった群れの中で、通りすがりにたがいに嗅《か》ぎ合っていた。そしてたがいに相手を見分けていた。そして全身の毛を逆立てていた。
クリストフはときどき、ある小さな料理兼牛乳店で食事をした。ゴーティエの昔の同僚で、鉄道の役員をしていたが、同盟罷業事件のために免職させられた、シモンという男の経営してる店だった。そこには産業革命主義者らがよくやって来た。五、六人づれで奥の室に陣取った。その室は狭い薄暗い中庭に面していて、中庭からは、籠《かご》にはいった二羽のカナリヤが光に向かってたえず狂うがように鳴きつづけていた。ジューシエも別嬪《べっぴん》のベルトという情婦をつれてやって来た。ベルトは強健な仇《あだ》っぽい娘で、蒼白《あおじろ》い顔色をし、紅色の帽子をかぶり、ぼんやりしたにこやかな眼つきをしていた。いつも一人の美少年を後ろに従えていた。器械職工のレオポール・グライヨーという若者で、美貌《びぼう》自慢で利口で生意気な奴《やつ》だった。彼は仲間じゅうでの耽美《たんび》家だった。無政府主義者だと自称し、有産階級にたいしてもっとも激烈な者の一人だと自称しながら、もっともいけない中流人の魂をそなえていた。数年来彼は毎朝、くだらない文学新聞の淫猥《いんわい》な頽廃《たいはい》的な小説を耽読《たんどく》していた。そのために頭が変梃《へんてこ》になっていた。快楽の想像における頭脳の精緻《せいち》さは、彼のうちで、肉体的高雅さの欠乏や、清潔にたいする無頓着《むとんじゃく》や、生活の比較的粗野なこと、などとうまく和合していた。彼は混合アルコール酒の小杯に趣味を覚えていた――贅沢《ぜいたく》な知的アルコール、不健全な富者の不健全な刺激物に。そして彼は、皮膚のうちにその享楽を有し得ないので、頭脳の中にそれを移し植えていた。そういうことをすると人は、口が回らなくなり足がきかなくなる。しかし富者と同等になれる。そして富者を憎む。
クリストフはその若者に我慢できなかった。がセバスティアン・コカールにたいしてはもっと同情がもてた。コカールは電気職工で、ジューシエとともにもっとも聴衆から謹聴される演説者だった。彼は理論をくどくどと述べたてはしなかった。いつも話がどこへ落ちてゆくかをみずから知らなかった。しかしただまっすぐに進んでいった。まったくフランス人式だった。丈夫な快男子で、四十歳ばかりになっていて、色|艶《つや》のいい大きな顔、丸い頭、樺《かば》色の髪、大河のような髯《ひげ》、牡牛《おうし》のような首筋と声とをもっていた。ジューシエと同じくすぐれた労働者だったが、しかし笑い好きで酒好きだった。虚弱なジューシエはその無遠慮な健康を、いつも羨望《せんぼう》の眼でながめていた。そして二人は友人ではあったが、ひそかな敵意が起こりかけていた。
牛乳店のお上さんのオーレリーは、四十五歳の親切な女で、昔は美しかったに違いないし、窶《やつ》れた今でもまだ美しかった。手に編み物をもって彼らのそばにすわり、彼らが口をきいてる間、唇《くちびる》を少し動かしながら親しい微
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