の火はもう消えていた。しかし彼はその善き熱をまだ心のうちに保っていた。彼は火がふたたび燃え出すことを知っていた。彼のうちに燃えないとすれば、だれかのうちに燃えるだろう。それはどこにおいてであろうとも、彼がそれを愛することに変わりはないだろう。それは常に同一の火であるから。そして彼は九月の日の夕方、その火が自然全体のうちに広がってるのを感じた。

 彼は自分の家のほうへ上っていった。雷雨のあとだった。もう日が照っていた。牧場からは水蒸気が立っていた。林檎《りんご》樹からは熟した果実が濡れ草の中に落ちていた。樅《もみ》の枝に張られた蜘蛛《くも》の巣はまだ雨滴に輝いてミュケナイの馬車の古風な車輪に似ていた。濡れた森の縁には啄木鳥《きつつき》の鋭い笑声が響いていた。そして無数の小蜂《こばち》が日の光の中で踊りながら、間断なき深い大オルガンの響きを森の丸天井の中いっぱいにたてていた。
 クリストフは森の中の開けた場所に出た。山の一つの襞《ひだ》のくぼみ、四方閉ざされた正しい楕《だ》円形の谷間で、夕陽の光が一面に当たっていた。赤土の地面であって、中央の狭い金色の野には、遅麦《おそむぎ》や錆《さび》色の燈心草が生えていた。周囲はすべて、秋で成熟した森に取り巻かれていた。赤銅《しゃくどう》色の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》、金褐色の栗《くり》、珊瑚《さんご》色の房をつけた清涼茶、小さな火の舌を出してる炎のような桜、橙《だいだい》色や柚子《ゆず》色や栗色や焦げ燧艾《ほくち》色など、さまざまな色の葉をつけてる苔桃《こけもも》類の叢《くさむら》。それはあたかも燃ゆる荊《いばら》に似ていた。そしてこの燃えたつ盆地のまん中から、種子と日光とに酔った一羽の雲雀《ひばり》が舞い上がっていた。
 クリストフの魂はその雲雀のようであった。やがてふたたび落ちること、そしてなお幾度も落ちること、それをみずから知っていた。しかしまた知っていた、下界の人々に天の光明を語ってきかせる歌をさえずりながら、火の中へと撓《たゆ》まずにふたたびのぼってゆくことを。



底本:「ジャン・クリストフ(四)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日改版第1刷発行
※「われは堅き金剛石《ダイヤ》…」以下の冒頭の一節は、底本では、楽譜の図版の下に組まれています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
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