ない魂を、獣の眼の中に読み取った。その眼は魂の代わりに叫んでいた。
「私はあなたに何をしましたか? なにゆえにあなたは私を害するのですか?」
 幾度も見|馴《な》れたもっともありふれた光景にも、彼はもう堪え得なかった。――荒い格子《こうし》の檻《おり》に閉じこめられて嘆いてる仔牛《こうし》、青っぽい白目をしてる飛び出した大きい黒い眼、薄赤い眼瞼《まぶた》、白い睫毛《まつげ》、額に縮れてる白い尨毛《むくげ》、紫色の鼻、X形の足、――百姓のもって行く仔羊が、いっしょに縛られた四足でぶら下げられ、頭を下にたれながら、起き直ろうとつとめ、子供のように泣きたてて、灰色の舌を差し出してるさま、――籠《かご》にいっぱいつめ込まれてる牝鶏《めんどり》、――遠くには、屠殺《とさつ》されてる豚の鳴き声、――料理場のまな板の上には、臓腑《ぞうふ》を抜き取られてる魚、……クリストフはもうそれらの光景に堪え得なかった。それらの罪なき生物に人間が与えてる名目のない苦しみは、彼の心をしめつけた。動物に理性の光が少しあるものと見なしてもみよ。動物にとっては世界がいかに恐ろしい幻であるかを想像してもみよ。冷淡無情で盲目で聾である人間らは、動物を締め殺し、その腹を割《さ》き、筒切りにし、生きながら煮、苦痛にもがくさまを見ては面白がっている。アフリカの食人種のうちにも、これ以上|獰猛《どうもう》な行為があるだろうか? 動物の苦しみには、自由な良心の者にとっては、人間の苦しみよりもいっそう許容しがたいものがある。なぜなら、少なくとも人間の苦しみは、一つの悪であることが是認されてるし、それを引き起こすものは罪人であると是認されている。しかし無数の動物は、一片の悔恨の影もなしに、毎日いたずらに屠《ほふ》られている。それを口にする者は物笑いとなるだろう。――そしてこのことこそ、許すべからざる罪悪である。この罪悪だけでも、人間は苦しむのが道理だということになる。この罪悪は人類に返報を求めている。もし神が存在していてこの罪悪を寛容するとすれば、この罪悪は神に返報を求めるだろう。もし善良な神が存在するならば、生ける魂のうちのもっとも卑賤《ひせん》なものも救われなければならない。もしも神は最強者にとってしか善良でないとするならば、そして、惨《みじ》めなるものにとっては、人間の犠牲に供えられてる下等のものにとっては、正理がないとするならば、善良というものは存在しないことになり、正理というものは存在しないことになる……。
 ああ、人間の行なう殺戮《さつりく》そのものも、世界の殺戮の中においてはわずかなものである。動物はたがいに食い合っている。穏やかな植物も、無言の樹木も、たがいに猛獣のごとき関係をもっている。森林の静穏さ、書物を通してしか自然を知らない文学者にとっては、たやすく美辞麗句の材料となる普通の場所……しかも、クリストフの家から数歩の所にある近くの森の中にも、恐るべき争闘が行なわれていた。殺害者の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》は、美しい薔薇《ばら》色の身体をした樅《もみ》に飛びかかり、古代円柱のようにすらりとしたその胴体にからみついて、それを窒息さしていた。※[#「木+無」、第3水準1−86−12]はまた樫《かし》の上にも飛びついて、それを打ち砕き、それを自分の松葉杖としていた。百本の腕をもってるブリアレウスのような※[#「木+無」、第3水準1−86−12]、一株から十本もの幹が出ていた。周囲のものをことごとく枯死さしていた。そして敵がなくなると、たがいにぶつかり合い、猛然とからみ合い、裂き合い、膠着《こうちゃく》し合い、ねじ合って、大|洪水《こうずい》以前の怪物のようであった。森の下部のほうでは、アカシアが周辺から内部へ生え込んでいって、樅林を攻撃し、敵の根を締めつけかきむしり、分泌物でそれを毒殺していた。それこそ必死の争闘であって、勝利者は敗者の場所と遺骸とをともに奪い取っていた。するとこんどは小さな怪物が、大怪物のその事業を最後までやり遂げていた。根の間から生え出た茸《きのこ》が、病衰した樹木の汁を吸って、それをしだいに空洞《くうどう》になしていた。黒|蟻《あり》が朽木を砕いていた。眼に見えない無数の虫が、生ありしものを噛《か》み穿《うが》って、塵埃《じんあい》に帰せしめていた……。しかもそれらの戦いの静寂さ!……おう、自然の平和よ、生[#「生」に傍点]の痛ましい残忍な面貌《めんぼう》を覆《おお》ってる悲しい仮面よ!

 クリストフはまっすぐに沈んでいった。しかし彼は腕を拱《こまね》いて争いもせず溺《おぼ》れてゆく人間ではなかった。いかに死にたがってたとは言え、生きんがためにできるだけのことをしていた。彼はモーツァルトが言ったように、「もはやなすべき
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