この方、古い麻痺した大地は自分の心がよみがえるのを感じていた。不確かな初春の気が空気の中や凍った樹皮の下にしみ込んでいた。翔《か》けってる翼のように広がった※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の枝からは雪解けの零《しずく》が落ちていた。牧場を覆《おお》うている白いマントを通して、柔らかい緑色の草の細芽がすでに萌《も》え出していた。その細い針のような新芽のまわりには、雪の裂け目から、あたかも小さな口からでもするやうに、濡《ぬ》れた黒い土地が息をしていた。毎日幾時間かの間、氷に覆われて麻痺してる水の声がまたつぶやき出した。骸骨《がいこつ》のような森の中には、清い鋭い歌を小鳥がさえずっていた。
 クリストフは何一つ眼に止めなかった。彼にとってはすべてが同じだった。いつまでも室の中をぐるぐる歩き回った。あるいは戸外をも歩いた。じっとしてることができなかった。彼の魂は内心の悪鬼のために分裂させられていた。悪鬼どもはたがいに噛《か》み裂き合っていた。押えつけられた情熱は、その獄屋の壁に猛然とぶつかりつづけていた。情熱にたいする嫌悪《けんお》の念もそれに劣らず激しかった。両者はたがいに喉《のど》首を噛み合っていた。そして争闘のうちに心を引き裂いていた。また同時に、オリヴィエの思い出、オリヴィエの死から来る絶望の念、満たされ得ない創作の妄執《もうしゅう》、虚無の深淵《しんえん》の前に荒立つ自負心、などもあった。あらゆる悪魔が彼のうちにあった。一刻の休息も得られなかった。あるいは、欺瞞《ぎまん》的な静安が来ることはあっても、荒波が一時静まることはあっても、彼は孤独の自分を見出して、そして自分のものをもう何にも見出さなかった。思想も愛も意志も、すべてが滅ぼされていた。
 創作すること! それが唯一の助けであった。自分の生活の残骸《ざんがい》を波のまにまに打ち捨てること! 芸術の夢の中へ泳ぎ逃げること!……創作すること! 彼は創作したかった……しかしもうそれができなかった。
 クリストフはかつて一定の働き方をしたことがなかった。強健であったときには、自分の充実にむしろ困るくらいで、その充実が欠けてきはすまいかとの心配も感じなかった。気の向くままに従っていた。なんら一定の規則もなしに、その時と気分とのままに働いていた。そして実際においては、いかなるところででもいかなる時にも働いていた。彼の頭は常に満たされていた。そして彼ほど充実してはいないが彼より思慮深かったオリヴィエは、幾度も彼に警告したことがあった。
「用心したまえ。君はあまり自分の力に信頼しすぎてる。がその力は谷川の水みたいなものだ。今日はいっぱいであるかと思うと、明日にも涸《か》れてしまうかも知れない。芸術家は自分の才能をうまく利用しなければいけない。それをむやみに消耗さしてはいけない。君の力に一定の道を作りたまえ。ある習慣、日々一定の時間に仕事をする摂生法、それに馴《な》れるようにしたまえ。そのことが芸術家にとって必要なのは、ちょうど軍隊式の動作や歩調が、戦闘する者にとって必要であるのと同じだ。危機がやってくると――(そして危機はいつでもやってくるものだ)――そういう鉄の鎧《よろい》が魂の没落を防いでくれる。僕はそのことを自分でよく知っている。僕が滅亡しなかったのは、そういう鎧に救われたからだ。」
 しかしクリストフは笑った。そして言った。
「君にはそれがいいかもしれないよ。しかし僕には生きる趣味を失うような危険はない。僕はあまりにりっぱな食欲をもってるのだ。」
 オリヴィエは肩をそびやかした。
「過多は過少を伴うものだ。あまりに丈夫な人ほど始末におえない病人はない。」
 そのオリヴィエの言葉が今や実証された。友が死んであとも、内生活の泉はすぐには涸れてしまわなかった。が妙に間歇《かんけつ》的となってきた。突然盛んに流れ出すかと思うと、つぎには地下に消えてしまった。クリストフはそれに気を止めなかった。そんなことはどうでもよかった。悲しみと新たな情熱とが彼の考えを奪っていた。――しかし、嵐《あらし》が過ぎ去った後、ふたたび泉を捜してその水を飲もうとしたとき、彼はもう何にも見出さなかった。まるで沙漠《さばく》だった。一筋の細流もなかった。魂が乾燥していた。彼はいたずらに、砂を掘ろうとし、地下の水脈から水を湧《わ》き出させようとし、いかにもして創作しようとした。しかし精神機能がそれに従わなかった。彼は習慣の助けを呼び出すことができなかった。習慣こそは忠実な味方であって、生の理由がことごとく逃げ去ったときにも、ただ一人しっかとわれわれのそばにとどまっていて、一言もいわず、一つの身振りもせず、眼をすえ口をつぐんではいるが、けっしておののかない確実な手で、われわれの手を取って危険な隘路《あいろ》
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