てすわりながら、例の夢想に沈んでいた。彼女は空《くう》を見つめていたが、クリストフはその眼つきの中に、あの晩と同じ異様な熱情の輝きが過ぎるのを見たような気がした。彼は書物を閉じた。彼女は見守られてるのを感じて、また仕事の針を運び始めた。その伏せた眼瞼《まぶた》の下から、彼女はやはりすべてのことを見てとっていた。彼は立ち上がって言った。
「いらっしゃい。」
彼女はまだ多少不安の影がさしてる眼を、彼の上にじっとすえ、その意をさとって、彼のあとについていった。
「どこへ行くんだい?」とブラウンは尋ねた。
「ピアノのところへ。」とクリストフは答えた。
彼はひいた。彼女は歌った。すぐに彼は、最初のときと同じ彼女を見出した。彼女はあたかも自分の世界にでもはいり込むように、その悲壮な世界のうちに難なくはいり込んだ。彼はなお試《ため》しつづけて、も一つの楽曲をもち出し、つぎにはさらに激烈な楽曲をもち出しながら、彼女のうちに熱情の群れを解き放ち、彼女を興奮させ、みずからも興奮していった。やがて激情の域に達すると、彼はぴたりとひきやめ、彼女と眼を見合わせながら尋ねた。
「結局あなたはどういう人でしょう?」
アンナは答えた。
「自分にもわかりませんわ。」
彼は乱暴に言った。
「そんな歌い方をなさるというのは、いったいあなたの身内には何があるんでしょう?」
彼女は答えた。
「あなたが私に歌わせなさるのですわ。」
「そうですかね? どうもぴったりはまってる。私が作者であるかあなたが作者であるか、わからないくらいです。であなたはこのようなことを考えてるんですか、あなたが?」
「わかりませんわ。歌うときにはもう自分でなくなると思いますの。」
「でも私には、歌っていられるときだけがほんとうのあなたであるように思われるんです。」
二人は口をつぐんだ。彼女の頬《ほお》は軽く汗ばんでいた。彼女の胸は沈黙のうちに騒ぎたっていた。彼女は蝋燭《ろうそく》の光を見つめて、燭台《しょくだい》の縁に流れた蝋を無意識にかき取っていた。彼は彼女をながめながら鍵《キー》をたたいていた。二人は唐突な荒い調子でぎこちない言葉をなお少しかわした。それから平凡な話をしようとつとめ、つぎには深みへはいるのを恐れてまったく黙り込んでしまった……。
翌日、二人はあまり口がきけなかった。一種の恐れをいだいて、そっと見合っていた。しかし晩になると、いっしょに音楽をやる習慣がついた。やがては午後にもやりだした。そして日ごとにますます募っていった。いつも同じ不可解な熱情が、初めの和音からすぐに彼女をとらえ、頭から足先まで彼女を燃えたたせ、そして音楽がつづいてる間、このつつましい中流婦人を、倨傲《きょごう》なヴィーナスの神となし、人の魂のあらゆる激情の化身《けしん》となした。
ブラウンは、アンナが突然声楽に熱中しだしたのを驚いたが、そういう女の出来心を説明しようとするだけの労をとらなかった。彼はいつもその小音楽会に臨席し、頭で拍子をとり、自分の意見を述べ、まったく喜びきっていた。それでも実は、もっとやさしい音楽を好んでいた。そんなに力を費やすのは誇張のように思われた。クリストフは空気中に或《あ》る危険を嗅《か》ぎ取っていた。しかし彼は眩暈《めまい》がしていた。通過してきた危機のために弱っていて、抵抗する力がなかった。自分のうちにどういうことが起こってるかを意識しなかったし、アンナのうちにどういうことが起こってるかを洞見《どうけん》しなかった。ある日の午後、熱狂的な情緒に満ちあふれながら、彼女は楽曲の途中で歌いやめ、訳も言わずに室から出ていった。クリストフは彼女を待った。が彼女はもう出て来なかった。三十分ばかりして、彼はアンナの室のそばの廊下を通りかかって、半ば開いてる扉《とびら》から室の奥に彼女を認めた。彼女は冷えきった顔をして、陰鬱《いんうつ》な祈祷《きとう》にふけっていた。
そのうちに、わずかな――ごくわずかな信頼の念が、二人の間に湧《わ》いてきた。彼は彼女に過去のことを話させようとした。彼女はありふれたことしか語らなかった。彼は非常に骨折って、はっきりと個々の事柄を少しずつ聞き出した。そして、ブラウンのごく軽率な好人物的性質のおかげで、その生活の秘奥《ひおう》を垣間《かいま》見ることができた。
彼女はその町の生まれだった。生家の名前ではアンナ・マリア・サンフルといった。父のマルタン・サンフルは、代々伝わった富裕な古い商家の出で、この家系には、階級的な尊大と宗教的な厳格主義とが、実を結んでいた。冒険的気性の彼は、多くの同郷人と同じく、東洋や南アメリカなど遠い所で幾年も過ごした。自家の商業上の利益や知識欲や自分一個の愉快などに駆られて、アジアの中部に大胆な探険を企てたこともあった。
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