日以来クリストフは、注意深くアンナを観察し始めた。アンナはまた例のとおり無口になり、冷たい無関心な様子になり、仕事にばかり熱中して、夫をまでもいらだたせ、また自分の不分明な性質についての人知れぬ考えを、そっと眠らしていた。クリストフはいくら彼女を窺《うかが》っても、初めのころの取り澄ました中流婦人をしか彼女のうちに見出せなかった。時とすると彼女は、眼を見すえ何にもしないでぼんやりしていた。そういう彼女のそばを離れてから、十五分もたってまた行ってみると、彼女はやはり同じように身動きもしていなかった。何を考えてるのかと夫に尋ねられると、彼女は我に返って微笑《ほほえ》んで、何にも考えてはいなかったのだと答えた。そしてそれはほんとうのことだった。
何事も彼女をその平静さから脱せさせることはできなかった。ある日彼女の化粧最中に、アルコールランプが破裂した。たちまちのうちに彼女は炎に包まれた。女中は助けを呼びながら逃げ出した。ブラウンは面喰《めんくら》って、あわてだし叫び声をたてて、気を失わんばかりだった。アンナは化粧版の留め金を引きちぎり、燃えだしてる裳衣《しょうい》を腰からすべり落として、それを足にふまえた。クリストフが狼狽《ろうばい》して、愚かにも水差をつかんでかけつけて来ると、アンナは椅子《いす》の上にのぼり、両腕を裸にし下裳だけの姿で、火の移ってる窓掛を両手で平然ともみ消していた。彼女は火傷をしたが、そのことはなんとも言わないで、ただそんな身裳《みなり》のところを見られたことを嫌《いや》がったらしかった。そして顔を赤らめ、両腕で無器用に肩を隠して、体面を傷つけられたような様子で、隣の室に逃げ込んだ。クリストフは彼女の落ち着きを感嘆した。しかしその落ち着きが、彼女の勇気を証するかあるいは無感覚を証するかは、彼にもわからなかった。彼は無感覚のほうだと思いがちだった。実際彼女は、何物にも、他人にも自分自身にも、無関心でいるかのようだった。彼女には心がないのかしらとクリストフは疑った。
そしてある事実を目撃してからは、もうそんな疑いの余地もなかった。アンナは黒い小さな牝《め》犬を飼っていた。賢そうなやさしい眼をした犬で、家の甘えっ児《こ》となっていた。ブラウンはこの犬をたいへんかわいがっていた。クリストフは仕事をするために室にこもるときに、その犬を自分の室へ連れ込んで、扉《とびら》を閉ざしながら、多くは仕事もしないでいっしょにふざけた。彼が外出するときには、犬は入り口で彼を待ち受けていて、あとについてきた。散歩の道連れが要《い》るからだった。犬は彼の前に駆け出して、飛ぶように早く四足で地面を蹴《け》散らしていった。早いのを得意げにときどき立ち止まった。そして胸をつき出し身をそらして彼をながめた。いつも威張った様子をしていた。木片があると猛烈に吠《ほ》えたてた。しかし遠くに他の犬を見つけるが早いか、全速力で逃げてきて、クリストフの膝《ひざ》の間に震えながら隠れた。クリストフはこの犬をからかいまたかわいがった。彼は人間から遠|退《の》いて以来、動物にいっそう親しい気持がしていた。動物はかわいそうなもののように思えた。憐《あわ》れな動物は、人物から親切にされるときには、ひどく信頼して身を任せるものである。人は彼らの生をも死をも掌中に握っているので、信頼しきってる弱い彼らを害する者があるとすれば、それはあたかも呪《のろ》うべき権力の濫用をなすものだと言うべきである。
このおとなしい犬は皆にたいしてやさしかったが、ことにアンナを好んでいた。アンナは別に犬を引きつけようとはしなかったが、ただ喜んで撫《な》でてやり、膝の上にすわらしてやり、食物の世話をしてやり、彼女相当の愛し方をしてやってるようだった。ところがある日、犬は一台の自動車の車輪を避けそこなった。ほとんど飼い主たちの眼前で轢《ひ》きつぶされた。まだ生きていて悲しげに泣いていた。ブラウンは帽子もかぶらずに家から飛び出した。血まみれの犬を抱き上げて、少なくともその苦痛を和らげてやろうとした。アンナもやって来たが、身をかがめもしないでうちながめ、不快そうに顔を渋めて、立ち去ってしまった。ブラウンは眼に涙を浮かべて、小さな動物の臨終の苦しみを見守った。クリストフは庭の中を大跨《おおまた》に歩き回り、両の拳《こぶし》を握りしめていた。アンナが平然と女中へ用を言いつけてるのが聞こえた。彼は言ってやった。
「あなたは平気なんですか、あなたは?」
彼女は答えた。
「どうにもできないではありませんか。考えないほうがよろしいんです。」
彼は彼女を憎い気がした。それから、返辞の滑稽《こっけい》さにびっくりした。そして笑い出した。悲しい事柄を考えない方法をアンナから教わりたいものだ、と彼は考えた。幸いに
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