を家の中に迎え入れた無言の女を紹介した。
「僕の妻だよ。」
彼女は手にランプをもって室の入り口に立っていた。丈夫な頤《あご》をした無言の顔だった。燈火を受けたその髪は褐《かっ》色の反映を見せ、同じくその頬《ほお》は艶《つや》のない色をしていた。彼女は肱《ひじ》を身体にくっつけて硬《こわ》ばった身振りで、クリストフへ手を差し出した。クリストフはその顔を見ないで手を取った。
彼は気が遠くなりかけていた。
「僕は実は……」と彼は説明しようとした、「君の好意で……もしお邪魔でなかったら……一日置いてもらいに……。」
ブラウンは彼をしまいまで言わせなかった。
「一日だって!……二十日でも、五十日でも、いいだけいてくれたまえ。君がこちらにいる間は、僕たちの所に泊まるんだ。長くいてくれるといい。それが僕たちにとっては光栄で幸福なんだ。」
そのやさしい言葉にクリストフは感動しきった。彼はブラウンの腕に身を投げ出した。
「クリストフ君、クリストフ君……」とブラウンは言った、「泣いてるね……え、どうしたんだろう?……アンナ、アンナ!……早く……気絶したよ……。」
クリストフは主人の腕の中で気を失っていた。数時間前から感じていた人事不省の状態に圧倒されてしまったのだった。
彼がふたたび眼を開いたときには、大きな寝台に寝かされていた。湿った土の匂《にお》いが開け放した窓から漂っていた。ブラウンは彼の上にかがみ込んでいた。
「許してくれ。」とクリストフはつぶやきながら立ち上がろうとした。
「腹が空《す》ききってるんだ。」とブラウンは叫んだ。
夫人は出て行き、一杯の飲み物をもってもどってきて、それを彼に飲ました。ブラウンが彼の頭をささえてやった。クリストフは正気づいた。しかし疲労のほうが飢えよりもはなはだしかった。頭をまた枕《まくら》につけるや否や眠った。ブラウン夫妻は彼を見守った。それから、彼にはただ休息だけが必要なのを見てとって、彼を一人残して出て行った。
幾年もつづくかと思われるような眠り、湖水の底に落ち込んだ鉛のように、みずからも圧倒され他をも圧倒する眠りだった。積もり積もった疲労にとらえられ、意志の門口で永久にうろついてる奇怪な妄想《もうそう》にとらえられるのである。クリストフはその未知の闇夜の中に埋もれ、焦慮し疲憊《ひはい》しながら眼を覚まそうと欲した。いつも半時間ばかり打ってる掛時計の音が聞こえた。息をすることも考えることも身動きもできなかった。手足を縛られ猿轡《さるぐつわ》をはめられて溺《おぼ》らせられてるかのようで、身をもがいてはまた底のほうへ沈んでいった。――ついに夜明けとなった。雨の日の遅々とした灰色の曙《あけぼの》だった。彼を焼きつくしていた堪えがたい熱はさめた。しかし身体は山の下敷きになってるかのようだった。彼は眼を覚ました。恐ろしい眼覚めだった。
「なにゆえに眼を開くのか? なにゆえに眼を覚ますのか? 地下に横たわってる憐《あわ》れな友のように、このままじっとしていたい……。」
彼はその寝ぐあいが苦しかったにもかかわらず、仰向けに寝たまま身動きもしなかった。腕と足とは石のように重かった。墓の中にいる心地だった。仄《ほの》白い光がさしていた。数滴の雨が窓ガラスを打っていた。庭には一羽の小鳥が悲しげな小さな声をたてていた。おう、生きることの惨《みじ》めさよ! 残忍なる無益さよ!……
時間が過ぎていった。ブラウンがはいってきた。クリストフは見向きもしなかった。ブラウンはクリストフが眼を開いてるのを見て、快活に呼びかけた。そしてクリストフがなお陰気な眼つきで天井を見つめてるので、その憂鬱《ゆううつ》を払いのけてやろうとした。寝台に腰をおろしてやかましくしゃべりだした。その騒々しさにクリストフは我慢できなかった。人力以上だと思われるほどの努力をして言った。
「どうか僕に構わないでくれたまえ。」
善良な彼はすぐに調子を変えた。
「一人でいたいんだね。どうしてだい。いやそうだろう。静かにしてるがいいよ。休息したまえ。口をきかないでいたまえ。食事をもって来させよう。だれもなんとも言わないよ。」
しかし彼は簡単に切り上げることができなかった。いつまでもくどくどと言い聞かしたあとで、大きな靴の爪先《つまさき》で床《ゆか》をきしらしながら出て行った。クリストフはまた一人きりになって、死のごとき疲労の中に沈み込んだ。考えは苦悩の霧の中にぼかされていた。彼は一生懸命に会得しようとつとめた……。「なにゆえに自分は彼を知ったのか? なにゆえに自分は彼を愛したのか? アントアネットが身を犠牲にしたのがなんの役に立ったか? あれらの生活、あれらの時代――かくも多くの困難と希望――彼の生に到達してそれとともに空虚に没してしまったもの、そ
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