オリヴィエは恥ずかしがって微笑《ほほえ》みながら言った。「感冒のせいなんだ。」
「奮発しなくちゃいけない。さあ、起きたまえ。」
「今は駄目《だめ》。あとで。」
彼はじっと夢想にふけった。翌日になると起き上がった。しかしそれは暖炉の隅で夢想をつづけるためだった。
四月の天気は温和で霞《かす》んでいた。銀色の霧の生暖かい帷《とばり》越しに、緑の小さな木葉《このは》がその新芽の蕾《つぼみ》を破っており、小鳥がどこかで隠れた太陽にさえずっていた。オリヴィエは思い出の紡錘《つむ》を繰っていた。彼は子供のときのことを思い浮かべた。故郷の小さな町から、霧の中を汽車にのって運ばれていった。母が自分のそばで泣いていた。アントアネットは一人で、客車の向こう隅《すみ》にすわっていた……。細そりとした横顔が、美妙な景色が、眼の底に描き出された。美しい詩句が一人でに、その綴《つづ》りやなだらかな韻律を並べてきた。彼は机のそばにすわっていた。腕を差し伸べさえすれば、ペンを取ってそれらの詩的な幻像を書き留めることができるのだった。しかし彼には意力が欠けていた。彼は疲れていた。自分の夢想の芳香は固定させようとすればすぐに発散してしまうことを、彼は知っていた。いつもそうだった。自分の最良のものは表現されることができなかった。彼の精神は花の咲き満ちた谷間に似ていた。しかしだれもそれに接近できなかった。摘み取ろうとするとすぐに花はしおれてしまった。ただわずかな花が、幾つかの脆《もろ》い新しい花が、香ばしい臨終の息をたてる少数の詩句が、辛うじて生き残り得るばかりだった。そういう芸術上の無力が、長い間オリヴィエの最大の悩みの一つだった。自分のうちに多くの生命を感じながらそれを救い上げ得ないとは!――今では、彼ももうあきらめていた。花は人から見られずとも咲くことができる。摘むべき人の手がない野にあっても、ますます美しくなるばかりである。日向《ひなた》に夢みる花の野は幸いなるかな! 一日の光といってはほとんどなかった。しかしオリヴィエの夢想はますます花を咲かしていた。悲しいやさしいまた奇怪な物語の数々を、彼はそのころみずから自分に語っていた。それはどこからともなくやって来て、夏の空にかかってる白雲のように漂い、空中に融《と》け散り、そのあとからまた他のが現われてきた。彼はそれに満たされていた。時には空に何にもないことがあった。彼はその光の中でうっとりしていた。するとやがてまた夢想の黙々たる船が、大きな帆を張ってすべるように現われてきた。
晩には佝僂《せむし》の少年がやって来た。オリヴィエはたくさんの物語を胸にいだいていたので、微笑《ほほえ》みながら我を忘れてその一つを話してやるのだった。そういうふうにして幾度彼は、一言も発しない少年をそばにして、前方をながめながら話したことだろう。しまいに彼は少年のいることも忘れてしまうのだった……。クリストフはあるとき話の最中にやって来て、その美しさに驚かされて、初めからその話をやり直してくれとオリヴィエに願った。オリヴィエは断わった。
「僕も君と同じようだよ。」と彼は言った。「もう自分にもわからないんだ。」
「そりゃあ嘘だ。」とクリストフは言った。「君は自分の言うことなすことはいつも覚えてるフランス人じゃないか。何一つ忘れるということがあるものか。」
「おやおや!」とオリヴィエは言った。
「さあもう一度話したまえ。」
「大儀だよ。何になるものかね。」
クリストフは怒った。
「そりゃあいけない。」と彼は言った。「君は自分の思想をなんの役にたててるんだい? 君は自分のもってるものを投げ捨ててばかりいる。永久に無駄になってしまうんだ。」
「どんなものでも無駄にはならないよ。」とオリヴィエは言った。
佝僂《せむし》の少年は、オリヴィエの話の間じっとして、窓のほうを向き、ぼんやりした眼をし、顔をしかめ、敵意ある様子で、見たところ何を考えてるのかわからないふうだったが、そのとき初めて身を動かした。彼は立ち上がって言った。
「明日《あした》はいい天気だろう。」
「僕は受け合うが、」とクリストフはオリヴィエに言った、「彼だって聞いてもいなかったんだ。」
「明日は五月一日だ。」とエマニュエルは陰鬱《いんうつ》な顔を輝かしながら言いつづけた。
「あれは彼のほうの話なんだ。」とオリヴィエは言った。「おい、君、それを明日僕に話してくれたまえ。」
「くだらない!」とクリストフは言った。
翌日クリストフは、パリー市中を少し歩くためにオリヴィエを誘いに来た。オリヴィエは回復していた。しかしやはり変な倦怠《けんたい》を覚えていた。外出したくなかった。なんとなく気がかりだった。群集に交わるのが好ましくなかった。心と精神とはしっかりしていたが、肉体に力がな
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