その唇《くちびる》とが見えていた。ザーミの鹿爪《しかつめ》らしい大きな口は少しも開かずに、苦笑の皺《しわ》を寄せていた。喉《のど》からは少しも声が漏れなかった。まるで沈黙の家のようだった。アンナが台所へはいってゆくと、ザーミは恭《うやうや》しく立ち上がって、彼女が出て行くまで黙ってつっ立っていた。ベービは扉《とびら》の開く音を聞いて、わざとらしく無駄《むだ》話をぷっつりよして、追従《ついしょう》の笑顔をアンナのほうへ向けながら、彼女の言いつけを待った。アンナは二人が自分の噂《うわさ》をしてたのだと思った。しかし彼女は二人をあまりに軽蔑していたので、その話をぬすみ聞きするような卑しい真似《まね》はしなかった。
巧妙な灰の罠《わな》を失敗に終わらせた翌日、アンナが台所にはいっていって、第一に眼についたものは、前夜素足の足跡を消すために用いた小さな箒《ほうき》が、ザーミの手にもたれてることだった。彼女はその箒をクリストフの室から取ってきたのだった。そして今になって初めて、もちもどることを忘れてたのに突然気づいた。それを自分の室に打ち捨てておいたのだった。ベービの鋭い眼はすぐそれを見てとった。そして二人の陰謀仲間は、事のわけを組み立てずにはおかなかった。がアンナはつまずかなかった。ベービは女主人の視線を見守りながら、大袈裟《おおげさ》に微笑《ほほえ》んで、言い訳をした。
「その箒はこわれておりました。でザーミに渡して直してもらうことにいたしました。」
アンナはその太々しい嘘《うそ》を取り上げようともしなかった。聞こえたふうさえしなかった。ベービの仕事振りをながめ、注意を与え、そして平然と出ていった。しかし扉を閉めると、すっかり自負心を失った。廊下の角に隠れて耳をそばだてざるを得なかった。――(そんな手段を用いるのがつくづく恥ずかしかった……。)――ごく短い忍び笑いの声、それから、何にも聞き分けられないほど低い耳語。しかしアンナは頭が乱れていたので、聞き分けられるような気がした。恐怖のあまりに、聞くのを恐れていた言葉が伝わってきた。来たるべき仮面仮装や馬鹿騒ぎのことを二人が話してるのだと、彼女は想像をめぐらした疑いの余地はなかった。二人は灰の話をもち出すつもりに違いなかった……。それは多分彼女の考え違いだったろう。しかし彼女は二週間以来不面目という固定観念につきまとわれて
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