…。オリヴィエはちょっと深淵《しんえん》から浮かび上がった。エマニュエルの唇《くちびる》と涙とを手の上に感じた。弱々しく微笑《ほほえ》んで、少年の頭に自分の手をやっとのことでのせた。その手がどんなにか重かった!……彼はふたたび闇《やみ》に沈み込んだ……。
瀕死《ひんし》の彼の頭のそばには、枕の上に、五月一日の小さな花束、数茎の鈴蘭《すずらん》を、オーレリーは置いていた。締まりの悪い水口から、中庭の桶《おけ》に水がぽたぽた垂《た》れていた。彼の頭の奥で、あたかも消えかかってる燈火のように、いろんな面影が一瞬間ひらめいた……。一軒の田舎家、壁には藤蔓《ふじづる》がからまり、庭には子供が一人遊んでいた。その子供は芝生《しばふ》の上に寝ころんでいた。噴水が石の水盤の中に飛び散っていた。一人の小さな娘が笑っていた……。
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二
彼らはパリーから出た。霧に埋もれてる広い平野を横ぎっていった。十年前にクリストフがパリーへ到着したときと同じような晩だった。あのときすでにクリストフは今と同様に逃亡者だった。しかしあのときは、友が、自分を愛してくれる者が、生きていた。そして彼はみずから知らずに、その友のほうへ逃げて来たのだった……。
初め一時間ばかりの間は、クリストフはまだ争闘の興奮の中にあった。強い調子でたくさん口をきいた。自分の見たことやしたことをごっちゃに語った。自分の勇気を誇っていた。マヌースとカネーもまた、彼の気を紛らすためにしゃべった。がしだいに熱がさめて彼は黙り込んだ。二人の同伴者だけがなおしゃべりつづけた。彼はその午後の暴挙を少しびっくりしていたが、少しも気を落としてはいなかった。彼はドイツから逃げ出したときのことを思い出した。あのときも逃亡者であり、いつも逃亡者だ……。彼は笑い出した。それが彼の運命だったに違いない。パリーを去ることは彼には苦痛でなかった。土地は広い。至る所人間は同じだ。友といっしょでさえあるならば、どこへ行こうとほとんど構わなかった。彼は翌朝友と落ち合うつもりでいた……。
一同はラローシュに着いた。マヌースとカネーは、彼が汽車に乗って出発するのを見るまではそばを離れなかった。クリストフは、自分の降りるべき場所と、旅館の名前と、便りを受け取るべき郵便局とを、繰り返し尋ねた。彼らはさすがに別れぎわになると、悲しげな顔
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