となしてる多数の馬鹿者どもをけしかけるのは、奇怪な恐るべき光景なのである。――クリストフは勝手に馴養《じゅんよう》されるような人間ではなかった。馬鹿な奴が自分に向かって、音楽上なすべきこととなすべからざることとを言ってきかせようとするのは、きわめて不都合なことだと思った。そして、芸術は政治よりも多くの準備を要すると、彼に諭《さと》してやった。それからまた、その新聞のおもな社員の一人がこしらえてる、社主の推薦づきのつまらない筋書きを、音楽にしてくれと申し込まれたが、彼はそれを無遠慮な言葉で断わってしまった。それは、彼とガマーシュとの関係のうちに、最初の冷たいものを投げ込んだ。
 クリストフはそんなことを意に介しなかった。彼は無名の域から脱すると、またすぐに無名の域にもどりたがっていた。「他人のうちに人を滅ぼすあの白日の光にさらされ[#「他人のうちに人を滅ぼすあの白日の光にさらされ」に傍点]」てる自分自身を、彼は見出したのだった。あまりに多くの人々が彼に干渉していた。彼はゲーテの言葉を考えてみた。

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 作家が一つの名作によって自分を認めさせるときには、公衆は第二の名作を作ることを彼に妨げようとする……。才能ある者も考え込んでいるうちには、世間の喧騒《けんそう》のなかに心ならずも引き込まれる。なぜかなれば、世間の人々は各自に、その才能の一片を自分のものになし得ると考えてるからである。
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 クリストフは扉《とびら》を閉ざした。そして自分の家のなかで、数人の旧友と接近していった。彼は多少閑却していたアルノー夫妻の家庭にまた出入りした。一日の一部を一人きりで暮らしていたアルノー夫人は、他人の悲しみを思ってやるだけの時間をもっていた。オリヴィエが出発したのでクリストフのところがさぞ寂しくなったろうと考えていた。そして内気なのを押えて彼を夕食に招いた。あえてする気があったら、ときどき家の中を見に行って上げようと申し出たかもしれなかった。しかし彼女には勇気がなかった。そしてもちろんそのほうがよかった。なぜなら、クリストフは人に世話をやかれることが嫌《きら》いだったから。でも彼は夕食の招待を承諾した。そして晩にはきまってアルノー夫妻のところへ行く習慣がついた。
 彼が出入りしてみると、その小さな家庭は相変わらず平和で、前よりはいっそう灰色になった寂しい同じ情愛の空気に包まれていた。アルノーは精神的|銷沈《しょうちん》の時期にさしかかっていた。それは、教師の生活――けっして止《とど》まりもせず進みもせず同じ場所で回転してる車のように、前日と同じ日が毎日繰り返されてゆく勤労の生活、その生活から磨滅《まめつ》された結果であった。善良な彼は忍耐強かったにもかかわらず、落胆の危機を通っていた。世間のある種の不正な事柄を悲しんでみたり、自分の献身的努力も無駄であると思ったりした。アルノー夫人はそれを親切な言葉で元気づけていた。彼女は相変わらず心安らかであるらしかった。しかし以前より窶《やつ》れていた。クリストフは彼の前で、こんなに物のわかった細君をもってるのは仕合わせだとアルノーに言った。
「そうです、」とアルノーは言った、「かわいい妻です。何事にも心を乱しません。妻も仕合わせだし僕も仕合わせです。もし妻がこんな生活を苦にしてたら、僕はもう没落していたでしょう。」
 アルノー夫人は顔を赤めて黙っていた。それから落ち着いた声で他のことを話した。――クリストフの訪問は、いつも二人のためになっていた。二人に光明を与えていた。そして彼のほうでもまた、それらのりっぱな心に接して自分の心を温《あたた》めるのがうれしかった。

 なおも一人、女の友が、彼のところへやって来た。と言うよりむしろ、彼のほうから会いに行った。彼女は彼と知り合いになりたがってはいたが、訪問してくるだけの努力は払わなかった。二十五歳の音楽家で、音楽学校でピアノの一等賞をもらったことがあった。セシル・フルーリーという名だった。背が低くて、かなり肥満していた。濃い眉《まゆ》、濡《うる》みがちな眼つきをした大きな美しい眼、家鴨《あひる》の嘴《くちばし》のように先端がやや赤味を帯びてそり返ってる太い低い鼻、人のよさそうなやさしげな厚い唇《くちびる》、元気な頑丈《がんじょう》なふっくりしてる頤《あご》、高くはないが広い額《ひたい》。髪は首の後ろに房々とした束髪に結えてあった。丈夫な腕をしていた。手はいかにもピアノひきらしく大きくて、親指が聞き指先が角張っていた。その身体全体からは、重々しい活気と田舎者《いなかもの》めいた健康との印象を人に与えた。母といっしょに暮らしていて、たいへん母を大事にしていた。母は人のいい女で、少しも音楽に興味をもたなかったが、音楽の話
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