力を得ていた。そしてそれを少しもみずから驚きはしなかったし、自分の力を借りにくる芸術的なあるいは慈善的な事業のために、その勢力を利用することを知っていた。ただそれらの事業の表立った世話は、みな他人に任せておいた。というのは、彼女は自分の地位相当の振る舞いをする術《すべ》を心得てはいたけれど、野中の寂しい別荘で暮らした多少粗野な幼年時代から、あるひそかな独立的気質を受け継いでいたのである。その気質は、社交界にたいして面白がりながらも疲れを覚えたが、しかし愛想のよい親切な心から出るやさしい微笑の下に、倦怠《けんたい》の情を隠すことができるのだった。
彼女は大きな友だちクリストフのことを忘れはしなかった。がもちろん彼女はもう、無言のうちに潔白な愛情を燃やしている少女ではなかった。現在のグラチアは、きわめて思慮深い女で少しも空想的ではなかった。自分の幼い愛情のいろんな誇張にたいしては、穏やかな皮肉の念をいだいていた。とは言え、それらの追憶によって心を動かされずにはいられなかった。クリストフの思い出は彼女の生活のもっとも純潔なころと結びついていた。彼の名前を聞くとうれしかった。そして彼の成功を一々、あたかも自分がそれに関係してるかのように楽しんでいた。なぜなら彼女は彼の成功を予感したのだったから。彼女はパリーへ来るとすぐに、彼に再会しようとした。少女時代の昔の名まで書き添えて、彼へ招待状を出した。クリストフはそれに注意も払わないで、招待状を屑籠《くずかご》に投げ込んだまま、返事さえ出さなかった。彼女は別に気を悪くしなかった。彼に知らせないようにして、彼の仕事やまた多少生活までも探っていた。新聞紙が彼にたいしてなした最近の戦いにおいて、親切な救いの手を彼へ差し出したのは、彼女だったのである。清麗なグラチアは、新聞社会とはほとんど関係をもたなかった。しかし友へ尽くす場合になると、狡猾《こうかつ》な策略を用いて、もっとも嫌《きら》いな人々をさえ取り込むことができた。吠《ほ》えたてる犬どもの群れを率いてる新聞社長を、彼女は招待した。そしてたやすく気を乱さしてしまった。彼の自尊心を喜ばすことができた。彼を瞞《だま》しこみながらうまく誘って、クリストフに向けられる攻撃に関し軽蔑《けいべつ》的な驚きの言葉をそれとなくちょっと発しただけで、戦いをぴたりとやめさしたのである。社長は翌日現われるはずだった侮辱的な記事を差し止めた。筆者が記事差し止めの理由を尋ねると、社長はきびしくしかりつけた。そしてなおそれ以上のことをした。頤使《いし》のままになる部下の一人に命じて、半月ばかりたつうちに、クリストフにたいする賛嘆の記事をこしらえさした。でき上がったその記事は、思いどおりの感激的な大袈裟《おおげさ》なものだった。また、大使館でクリストフの作品を聴《き》かせようと思い立ったのも、グラチアだったし、クリストフがセシルを贔屓《ひいき》にしてることを知って、その若い歌手を世に知らせようと尽力したのも、グラチアだった。それからまた、彼女はドイツの外交社会との関係によって、穏やかな巧妙さで、ドイツから放逐されてるクリストフに対する政府筋の同情を、ごく徐々に喚起させ始めた。そしてしだいに世論の趨勢《すうせい》を一定さして、故国の名誉たる大芸術家に故国の門を開いてやるべき勅令を、皇帝から得させようとつとめた。その特赦状を期待するのは目下のところまだ尚早《しょうそう》に失するとしても、少なくとも彼女は、彼が故郷の町へ数日の旅をすることについて、当局に眼をつぶってもらうことができたのだった。
そしてクリストフは、眼に見えない友の存在を自分の上に感じながら、それがだれであるかを見出し得なかったけれど、鏡の中で微笑《ほほえ》みかけた若い聖ヨハネの面影のうちに、今やその本体を見てとった。
二人は過去のことを話した。話してる事柄がどんなことであるか、クリストフはほとんど自分でもわからなかった。人は愛する女をよく見ないと同じく、その言葉をもよく聞きはしない。そして深く愛するときには、愛してるということさえも考えない。クリストフは何にも気づかなかった。彼女がそこにいる、それだけでもう十分だった。他のことはもう何も存在しなかった……。
グラチアは話しやめた。ごく背の高い、かなり美男子の、身装《みなり》を凝らし、髯《ひげ》を剃り、頭は半ば禿《は》げ、退屈げな軽蔑《けいべつ》的な様子をしてる、一人の若い男が、片眼鏡越しにクリストフをじろじろ見ていたが、早くも尊大な丁寧《ていねい》さで辞儀をしていた。
「夫ですよ。」と彼女は言った。
広間の騒々しさがまた感ぜられてきた。内心の光は消えた。クリストフはぞっとして口をつぐみ、男の挨拶《あいさつ》に答礼しながら、すぐに引きさがってしまった。
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