、聞き知らぬ声は威嚇的になっていった。クリストフは仲裁してやらなければならないと思った。そして扉を聞いた。こちらに背を向けてる多少無格好な若い男の姿が、ちらと見えただけだった。とっさにセシルはクリストフのほうへやって来て、元の室へもどってくれと頼んだ。彼女も彼といっしょにもどって来た。二人は黙って腰をおろした。隣の室では、その客がなおしばらく怒鳴っていたが、やがて扉をがたりと音さして出て行った。するとセシルは溜息《ためいき》をついてクリストフに言った。
「あれは……私の兄です。」
 クリストフは了解した。
「ああ……私にも覚えがあります……。」と彼は言った。「私にもそんな兄弟が一人あるんです……。」
 セシルはやさしい同情を寄せて、彼の手をとった。
「あなたも?」
「ええ。」と彼は言った。「あんなのは家庭の喜びですね。」
 セシルは笑った。そして二人は話を変えた。がまったく、家庭の喜びは少しも彼女の心を喜ばせなかったし、結婚の考えは少しも彼女の心をひかなかった。男というものはあまり価値のあるものではなかった。彼女は独立の生活のほうがずっとよいと考えていた。現に母親も、独立生活の自由を長い間待ち望んできたのだった。セシルもその自由を失いたくなかった。彼女が楽しみにして胸に描いてる唯一の夢想は、いつか、あとになって、それもいつのことだかわからないが、田舎《いなか》で暮らすということだった。しかし彼女は、その生活の詳細を想像するだけの労もとらなかった。そんな不確かな事柄に思いをはせるのは大儀だった。それよりは眠るほうがよかった――もしくは仕事をするほうがよかった……。
 彼女はその空中楼閣が実現するまでは、夏の間パリーの近郊に小さな家を借りて、それを母と二人きりで占領していた。汽車で二十分ほどの所だった。家は停車場からかなり遠くて、田んぼと言われてる荒蕪《こうぶ》地のまん中に孤立していた。セシルはしばしば夜ふけにもどって来た。しかし少しも恐《こわ》くなかった。危険が起ころうとは思っていなかった。ピストルを一つもっていたが、いつも家に置き忘れていた。そのうえ、ろくにその使い方も知らなかった。
 クリストフはその訪問中、彼女に演奏さした。楽曲にたいする彼女の洞察《どうさつ》力を見るとうれしかった。一言いってやったばかりで彼女がその表現すべき感情にぴたりとはまるときには、ことに
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