、だれも私を必要としてはいない、夫でさえも私なしで済ましてゆけるだろう、私が生きたのも無駄《むだ》であった……と。そして私は逃げ出そうとしました、なんだか馬鹿げたことをしようとしました。あなたのところへ上がって行きました……。覚えていらっしゃいますか?……あなたはなんで私がやって来たのかおわかりになりませんでした。私はお別れにまいったのでした……。それから、どんなことになったか私は存じません。どんなことをあなたがおっしゃったか知りません。もうはっきり思い出せないのです……。けれどたしかに、あなたに何か言われました……(御自分ではお気もつかれなかったのでしょうが)……その言葉が私にとっては一筋の光明でした……。まったくその瞬間には、ほんのわずかなことで、私は駄目になるか救われるかする場合だったのです……。私はあなたのところから出て、自分の室に帰り、閉じこもって、一日じゅう泣きました……。それからはすっかりよくなりました。危機は通り過ぎてしまったのです。」
「そして今では、」とクリストフは尋ねた、「それを後悔していらっしゃるのですか。」
「今ですって?」と彼女は言った。「ああもしそんな馬鹿な真似《まね》をしていましたら、私はもうとっくにセーヌ河《がわ》の底にでも沈んでるでしょう。私はその不名誉を忍びきれなかったでしょう、気の毒な夫にかけた苦しみを忍びきれなかったでしょう。」
「ではあなたは幸福なんですね。」
「ええ、この世で人が幸福になり得られるだけの程度には。まったくのところ、おたがいに理解し合い尊重し合って、おたがいに信じてることをよく知ってる夫婦というものは、世にはめったにありません。それも、多くは幻にすぎない単なる愛の信念からではなくて、いっしょに過ごした長年の経験から、陰鬱《いんうつ》な平凡な長年の経験から、そうなったのでして、打ち勝ってきたいろんな危険の思い出がありながらも――いえ、ことにその思い出があるので、いっそうそうなってゆくのです。そして年取るに従って、それはますますよくなってゆくものなんです。」
 彼女は口をつぐんだ、そして突然顔を赧《あか》くした。
「まあ、私はどうしてこんなことをお話ししたのでしょう?……どうしたのでしょう?……お忘れになってくださいね、クリストフさん、お願いですから。だれにも知られてはいけないことなんです……。」
「御心配には
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