するほど馬鹿ではない。しかし僕は武力の軍隊に属してる者ではないのだ。僕は精神の軍隊に属してるのだ。幾千の同胞とともにそこでフランスを代表してるのだ。シーザーが土地を征服したければするがいい。われわれは真理を征服するのだ。」
「征服するためには、」とクリストフは言った。「打ち克《か》たなければいけない、生きなければいけない。真理というものは、洞窟《どうくつ》の壁から分泌《ぶんぴつ》される鍾乳石《しょうにゅうせき》のように、頭脳から分泌される堅い独断説ではない。真理とは生にほかならない。それを自分の頭の中に求むべきではない。他人の心の中に求むべきだ。他人と結合したまえ。自分の欲することをなんでも考えるのはいいが、しかし毎日人類の湯につかりたまえ。他人の生に生きてその運命を堪え愛することが、必要なのだ。」
「われわれの運命は、われわれが本来あるべきものになるということだ。たとい危険が伴おうとも、われわれが何か考えたり考えなかったりするのは、われわれ自身の力でどうにでもなることではない。われわれは文明のある段階に達してるので、もうあとに引き返すことはできない。」
「そうだ、君たちは文明の高台の先端に達している。そこまで達した民衆はみな下に身を投じたくてたまらなくなる、危険な場所なのだ。宗教と本能とが君たちのうちでは衰えてしまってる。君たちは知力だけになっている。危《あぶな》い瀬戸ぎわだ。死が来かかっているのだ。」
「死はどの民衆にもやってくる。それはただ世紀の問題だ。」
「君は世紀を馬鹿にするつもりなのか。生全体が時日の問題じゃないか。過ぎ去る各瞬間を抱きしめないで、絶対的なもののうちにはいり込むとは、君たちもよほど馬鹿げた抽象家なんだ。」
「しかたないさ。炎は松明《たいまつ》を燃やし去ってゆく。人は現在と過去とに共に存在することはできないからね、クリストフ。」
「現在に存在しなければいけない。」
「過去にある偉大なものであったということも、りっぱなことだ。」
「それは現在にもなお生きた偉大な人々があってそのことを鑑賞するという条件でこそ、りっぱなのだ。」
「それでも、今日つまらなく生きてる多くの民衆のようであるよりも、死んだギリシャ人であることのほうを、君は好みはしないのか。」
「僕は生きたるクリストフでありたい。」
 オリヴィエは議論するのをやめた。答え返すべきことが少ないからではなかった。議論に興味がないからだった。その議論の間彼はただクリストフのことばかり考えていた。彼は溜息《ためいき》をつきながら言った。
「君は僕が君を愛してるほどには僕を愛してくれないんだね。」
 クリストフはやさしく彼の手をとった。
「オリヴィエ、」と彼は言った、「僕は君を自分の生以上に愛してるのだ。しかし許してくれたまえ、生[#「生」に傍点]以上には、両民族の太陽以上には、君を愛していないのだ。君たちの誤った進歩に引きずられて闇夜《やみよ》の中に陥るのが、僕は恐ろしいのだ。君たちのあらゆる思い諦《あきら》めの言葉の下には、深淵《しんえん》が潜んでいる。しかし行動のみが、たとい殺害的行動でさえ、唯一の生きてるものだ。われわれはこの世において、焼きつくす炎かあるいは闇夜か、その一つを選ぶばかりである。薄暮に先立つ夢想にはいかに愁《うれ》わしい甘さがあろうとも、僕は死の先駆者たるその平穏を望まない。無窮な空間の静けさを僕は恐れる。火の上に新たな薪束《まきたば》を投じたまえ。もっと、もっと、投じたまえ。必要なら僕をもいっしょに投ずるがいい……。僕は火が消えることを望まない。もし火が消えたら、われわれはもうおしまいだ、現存するすべてのものはもうおしまいだ。」
「僕は君のそういう声を知ってる、」とオリヴィエは言った、「それは過去の野蛮の底から来る声だ。」
 彼は棚《たな》からインド詩人の書物を一つ取って、クリシュナ神の崇厳な激語を読み上げた。

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 奮い起《た》てよ、しかして決然と戦えよ。快楽をも苦痛をも、利得をも損失をも、勝利をも敗北をも、すべて意に介せずして、全力をもって戦えよ……。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは彼の手からその書を奪い取って読んだ。

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 ……およそ何物も予に活動を強《し》うるものなく、何物も予に属せざるものなけれども、予はなお活動を捨てざるなり。もし予にして、不断|不撓《ふとう》なる活動もて、人間にその則《のっと》るべき実例を与うることなくんば、人間はみな滅び失《う》せん。もし予にして、たとい一瞬たりとも活動を止めなば、世界は混沌《こんとん》のうちに陥りて、予は人生を滅ぼすものとならん……。
[#ここで字下げ終わり]

「人生、」とオリヴィエは繰り返した、「人生とはなんだろう?」
「一つの悲劇だ。」とクリストフは言った。「悲劇を歓呼せんかな!」

 大波は消えていった。すべての人々がひそかな恐れをいだいて急いで忘れようとした。だれももう先ほどからの出来事を覚えていないようなふうだった。それでもなおそのことを考えてるのが認められた。なぜなら、彼らは皆喜ばしい様子で、ふたたび生活に、脅かされたときに初めて全価値がわかる日常の善良な生に、心を寄せていた。ちょうど危険が一つ過ぎ去ったかのように、以前に倍加した執着を示していた。
 クリストフは以前に数倍した熱心さで、また制作に身を投じた。オリヴィエをもいっしょにそれへ引き込んだ。二人は陰鬱《いんうつ》な思想にたいする反動から、ラブレー風の叙事詩をいっしょに制作し始めた。その叙事詩は精神的圧迫の時期の後に来る強健な唯物主義の色を帯びていた。その伝説的な主人公――ガルガンチュア、法師ジャン、パニュルジュ――にオリヴィエは、クリストフの感化で、新しい人物を一人加えた。それはパシアンスという百姓であって、素朴《そぼく》な、小賢《こざか》しい、ずるい男で、打たれ、奪われ、勝手なことをされ――妻を愛され、畑を荒らされ、人からされるままになり――それでいて飽かずに、自分の土地を耕し――戦争にやらされ、あらゆる打擲《ちょうちゃく》を受け、人からされるままになり――主人たちの功績や自分が受ける打擲を、期待し面白がり、「このままでいつまでつづくものか」と考え、最後の蹉跌《さてつ》を予見し、それを横目でじろじろ待ち受け、無言の口を大きく開いてすでに前もって嘲笑《あざわら》っていた。果たしてある日、ガルガンチュアと法師ジャンとは、十字軍に行って行くえ不明になった。パシアンスは彼らの死を正直に惜しみ、快活にみずから慰め、おぼれかかったパニュルジュを救い、そして言った。「お前さんがわしにまだいろんな悪戯《わるさ》をすることは、よくわかってる。だけどわしはお前さんを捨てることができない。お前さんはわしの腹の役にたつ、わしを笑わしてくれるから。」
 そういう詩に基づいて、クリストフは作曲した。合唱付の交響曲的大画幅で、勇壮|滑稽《こっけい》な戦争、放埓《ほうらつ》な祭礼、道化た奇声、大袈裟《おおげさ》な子供じみた喜びをもってるジャヌカン的な恋歌、海上の暴風雨、鳴り響く島とその鐘が含まっていて、最後の牧歌的な交響曲《シンフォニー》には、牧場の空気がいっぱい満ちていて、朗らかなフルートとオーボエの喜悦や、民謡などを含んでいた。――二人の友はたえず愉快に仕事をした。頬《ほお》の蒼《あお》い痩《や》せぎすのオリヴィエも、力のうちに浸っていた。彼らの屋根裏の室には喜悦の竜巻《たつまき》が吹き過ぎていた……。自分の心と友の心とをもってする創作! 二人の恋人の抱擁も、この親しい二つの魂の和合に比べては、楽しさも熱烈さも劣るであろう。二つの魂はついにすっかり融《と》け合ってしまって、同時に同じ思想の閃《ひら》めきをもつほどになった。あるいはまた、クリストフがある場面の音楽を書いてると、オリヴィエはやがてその言葉を見出していた。クリストフはオリヴィエを自分の否応なしの航路中に引き入れていた。彼の精神はオリヴィエを包み込み、オリヴィエを豊饒《ほうじょう》ならしめていた。
 創造の喜びに勝利の愉快さも加わってきた。ヘヒトは思い切ってダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]を出版したのだった。その総譜は時機に投じて、外国でたちまち名声を博した。ヘヒトの友人でイギリスに住んでいるワグナー派の有名な楽長が、その作品に感激した。彼は多くの音楽会にそれを演奏して、非常な成功を収め、それが彼の感激とともに、ドイツへ反響して、ドイツでも演奏された。楽長の方ではクリストフと文通を始め、他の作品を求め、尽力を申し越し、熱心な宣伝をしてくれた。ドイツでは、昔排斥されたイフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]がふたたび取り上げられた。人々は天才だと叫んだ。クリストフの経歴の小説的な事情は、少なからず人の注意をひく助けとなった。フランクフルト新聞[#「フランクフルト新聞」に傍点]が初めて、反響の大きな記事を掲げた。他の新聞もそれにならった。するとフランスにおいてもある人々は、フランスに大音楽家がいることに思いついた。パリーの音楽会長の一人はクリストフに、そのラブレー風の叙事詩曲がまだでき上がらない前から演奏を申し込んだ。グージャールはクリストフの来たるべき名声を予感して、自分が発見した天才たる友人のことを、意味深げな言葉で語り始めた。そして素敵なダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]を記事で賞賛した――前年ある記事で二、三行|悪罵《あくば》を加えたことなんかは、もうきれいに忘れはてていた。彼の周囲の者も一人として、もうそれを覚えてはいなかった。パリーでは、ワグナーやフランクも昔はひどくけなされたものであるが、今日では新しい芸術家らを排斥するために賞賛されており、その新しい芸術家らとて、明日は賞賛されるようになるだろう。
 クリストフはこういう成功をほとんど予期していなかった。いつかは勝利を得ると知ってはいたけれど、それがこんなに早かろうとは思っていなかった。そしてあまりに急な成果を信じかねた。彼は肩をそびやかして、構わないでおいてくれと言っていた。前年ダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]を書いた当時に喝采《かっさい》されたのなら、訳がわかっていた。しかし今ではもうそれから遠くに来ていて、幾段もの進歩をしてるのだった。昔の作品のことを喋々《ちょうちょう》してくれる人々に、彼は好んでこう言いたかった。
「そんなつまらないもののことは構わないでくれ。僕はその作がいやだ。君たちも嫌《いや》だ。」
 そして彼は、気持を乱されたことを多少いらだちながら、新しい仕事に没頭した。それでもひそかな満足を覚えていた。光栄の最初の光はきわめて楽しいものである。打ち克《か》つのは愉快な健全なものである。それは、開けゆく窓であり、家の中に入り来る初春の気である。――クリストフは、自分の昔の譜作を、そしてことにイフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]を、いくら軽蔑《けいべつ》してみても駄目《だめ》だった。先年あれほど彼に屈辱を与えたその惨《みじ》めな作イフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]が、ドイツの批評家らから賞賛され劇場から求められてるのを見るのは、彼にとってはやはり一つの腹癒《はらい》せだった。ちょうど今もドレスデンから手紙が来て、つぎの季節にその作の上演を許してもらえれば幸いだと……彼へ言ってきた。

 多年の艱難《かんなん》の後ついに、より平安な前途と遠くに勝利とを瞥見《べっけん》させる右の報知が、クリストフのもとへ届いた同じ日に、他の一通の手紙が、また彼のもとへ到着した。
 それは午後のことだった。隣室のオリヴィエへ快活に話しかけながら、顔を洗ってるところへ、門番の女が一対の手紙を扉《とびら》の下から差し入れていった。母の筆跡……ちょうど彼も母へ手紙を書くつもりだった。自分の成功を知らせるのがうれしかった……。彼は手紙を開いた。わずか数行だった。ひどく震えた筆跡だった……。

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 いとしき子よ、私は身体があまり
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