己の法則をそなえている。その掟《おきて》は自然の力の掟と同じである。人間の生活には、静かな湖水のごときもあり、雲の流るる明るい大空のごときもあり、豊饒《ほうじょう》な平野のごときもあり、切り立った山嶺《さんれい》のごときもある。ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]は、いつも大河のごとくに私の眼には映った。私は最初よりそれを述べておいた。――大河の流れのうちには、周囲の野や空を映しながら広々として眠ってるように思える場所がある。それでもやはり流れ変化しつづけている。時としては、静まり返った外見のうちに急流を包んでいて、その猛然たる勢いはやがて、先に行って第一の障害にぶつかったとき、突然現われてくることがある。そういうのが、ジャン[#「ジャン」に傍点]・クリストフ[#「クリストフ」に傍点]のこの一巻の姿である。今は、おもむろに水を集め、両岸の思想を吸い込みながら、ふたたびその流れをつづけんとしている、海の方へ――われわれが皆行くべき海の方へ。
一九〇九年一月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改ページ]
一
俺《おれ》には一人の友がある!……苦しいときに寄りすがるべき一つの魂を、あえぐ胸の動悸《どうき》が静まるのを待ちながら、やっと息がつけるやさしい安全な一つの避難所を、見出したという楽しさ! もはや一人ではない。疲れて敵に渡されるまで、常に眼を見開き不眠のために充血さしながら、たえず武装していることも、もはや必要ではない。自分の全身を向こうの手中に託し、向こうでもその全身をこちらの手中に託した、親愛なる伴侶《はんりょ》があるのだ。ついに休息を味わい、彼が見張ってくれてる間は眠り、彼が眠ってる間は見張ってやる。子供のようにこちらを信頼してるなつかしい者を、保護してやるという喜びを知る。向こうに身をうち任せ、あらゆる秘密をも知られてるのを感じ、勝手に自分を引き回されるのを感ずるという、さらに大きな喜びを知る。多年の生活のために老い衰え疲れていたのが、友の身体のうちに若々しく溌剌《はつらつ》と生まれ返り、新しい世界を友の眼でながめ、この世の一時の美しいものを友の官能で抱きしめ、生きることの輝かしさを友の心で楽しむ……苦しみをも友とともにする……。ああ、友といっしょにいさえすれば、苦悶《くもん》までが喜びである!
俺には一人の友がある! 自分の遠くに、自分の近くに、常に自分のうちに、友がある。俺は友を所有し、俺は友のものである。友は俺を愛している。友は俺を所有している。融《と》け合って一つの魂となったわれわれの魂は、愛に所有されてるのだ。
ルーサン家の夜会の翌朝、クリストフが眼を覚《さ》ましながら第一に考えたのは、オリヴィエ・ジャンナンのことであった。彼はすぐに会いたくてたまらなくなった。起き上がって出かけた。八時前だった。なま温《あたた》かい多少重苦しい朝だった。早くも四月時分の気候が見舞ったようで、雷雨模様の雲がパリーの上にたなびいていた。
サント・ジュヌヴィエーヴ丘の麓《ふもと》の、植物園のそばの小さな通りに、オリヴィエは住んでいた。その家は通りのいちばん狭い場所にあった。階段が薄暗い中庭の奥に開いていて、不潔な雑多な匂《にお》いを放っていた。急な曲がり角《かど》をなしてる段々は、鉛筆で楽書きされてる壁のほうへ傾いていた。四階まで上ると、灰色の髪を乱し平常着をだらしなくつけた女が、足音を聞いて扉《とびら》を開いたが、クリストフの姿を見てまた荒々しく扉を閉《し》めた。どの階にもたくさん住居があって、建て付けの悪い扉の隙間《すきま》から、子供らの押し合ったり泣き叫んだりするのが聞こえていた。天井の低い各階の中にたがいにつみ重なり、胸悪くなるような中庭のまわりにぎっしりつまってる、不潔な凡俗な生活のうごめきだった。クリストフは嫌悪《けんお》の情に打たれた。これらの人々は、少なくとも万人のための空気をもってる田舎《いなか》を離れて、いかなる渇望のためにここへ引きつけられてるのか、そして、生涯《しょうがい》墓の中みたいな生活をしなければならないこのパリーから、いかなる利益を得ることができてるのか、と彼は不思議に考えた。
彼はオリヴィエが住んでる階に達した。呼鈴の代わりに結び綱がついていた。クリストフはそれをあまり強く引っ張ったので、その音にまた幾つかの扉《とびら》が階段口に半ば開かれた。オリヴィエが扉を開いた。その服装の質素ではあるが気をつけた小ぎれいさにクリストフは注意をひかれた。その服装の心づかいは、他の場合だったら気にも止まらなかったろうが、ここでは快い意外さを与えるのだった。よごれた雰囲気《ふんいき》の中にあって、それはある微笑《ほほえ》ましい健全なものをもって
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