のではなかった。人間ぎらいの役目をなし得ようとは自分でも思ってはしなかった。世間をあざけってはいるがその世間にたいしてむしろ臆病《おくびょう》だった。内心では、自分より世間のほうが道理でないとは確信できなかった。他人とあまり異なったふうをするのを避けていたし、表面に現われてる他人のやり方や意見に則《のっと》ろうとつとめていた。しかしいかにしても無駄だった。それらを批判せずにはいられなかった。あらゆる誇張されたものや単純ではないものにたいして、鋭敏な知覚をそなえていた。そして自分のいらだちを少しも隠し得なかった。ことにユダヤ人らの滑稽《こっけい》な点には、彼らをよく知ってるだけになおさら敏感だった。そして、人種間の柵《さく》を認めないほど自由な精神をもってたにもかかわらず、他の人種の者らが彼にたいして設けてる柵にしばしばぶつかったので、また、彼自身も不本意ながら、キリスト教的思想の中では異境にある気がしたので、彼は威厳ある孤立を守って、自分の皮肉な批判癖と細君にたいする深い愛情とのうちに引っ込んでいた。
災《わざわ》いなことには、細君もまた彼の皮肉な眼からのがれなかった。彼女は親切で、活動的で、自分を役だたせたいと願い、いつも慈善事業にたずさわっていた。夫よりはるかに複雑でない性質の彼女は、自分の道徳上の誠意のうちに、また、自分の義務としてる多少|頑《かたくな》な理知的なしかしごく高尚な意見のうちに、うずくまり込んでいた。かなり憂鬱《ゆううつ》で、子供もなく、大きな喜びもなく、大きな愛もない、彼女の全生活は、その道徳的信念の上に築かれていた。が信念というも実は信じたい意志にすぎなかった。夫の皮肉な眼は、彼女の信念のうちにある勝手な欺瞞《ぎまん》の方面を見のがさなかったし、心ならずもからかわずにはいられなかった――(それは自分でも抑制し得ないことだった。)彼はまったく矛盾ででき上がっていた。義務については細君に劣らぬ高尚な感情をもっていたが、また同時に、解剖し批評し欺かれたくないという一図な欲求をもっていて、自分の道徳上の命令を寸断し粉砕していた。彼は細君の立脚地を覆《くつが》えしてることには気づかなかった。残酷なまでに細君を落胆さしていた。それに感づくと彼女以上に苦しんだ。しかしもうやったことでしかたなかった。それでも彼らはなおつづけて、忠実に愛し合い、働き、善を行なっていた。しかし細君の品位を保った冷然さは、夫のほうの皮肉さと同様に、人からよく思われなかった。そして彼らはあまりに高く止まって、実際になしてる善や善をなしたいという願望などを高言しなかったので、人々は彼らの控え目なのを冷淡だと見なし彼らの孤立を利己主義だと見なしていた。彼らは人からそういう意見をもたれてると感ずれば感ずるほど、ますます用心してそれを打ち消そうとはつとめなかった。同人種の多くの人たちの露骨な無遠慮さにたいする反動から、傲慢《ごうまん》が多く宿ってる極端な遠慮さのために、彼らは犠牲となっていた。
小さな庭から数段高くなってる第一階には、植民地砲兵の将校で今は退職の身となってる、シャブラン少佐が住んでいた。まだ若々しい元気な男だった。スーダンやマダガスカルで花々しい戦いをしたこともあったが、その後にわかにすべてをなげうって、この住居に腰をすえ、もう軍隊のことは噂《うわさ》を聞くのもいやがり、花壇を掘り返したり、いつまでも物にならぬフルートの稽古《けいこ》をしたり、政治のことを憤慨したり、愛する娘をいじめたりしながら、日々を過ごしていた。その娘というのは三十歳の若い女で、ごくきれいではないが愛嬌《あいきょう》があって、父親に一身をささげ、父親のもとを離れたくないので結婚もしないでいた。クリストフは窓からのぞき出して、しばしば彼らをながめた。そして自然と、父親によりも娘のほうに多く注意を向けた。彼女は午後の一部分を庭で過ごしながら、年取った不平家の父親といっしょにいつも上機嫌《じょうきげん》で、縫い物をしたり夢想したり庭をいじったりしていた。少佐の口やかましい声に茶化した調子で答えてる、彼女の静かな澄んだ声が聞こえた。少佐は砂の小径《こみち》をいつまでもぶらついていたが、やがて家に引っ込んでいった。彼女はあとに残って、庭のベンチに腰をかけ、身動きもせず口もきかずぼんやり微笑《ほほえ》みながら、幾時間も裁縫していた。一方では家の中で、退屈しきってる少佐が、一生懸命にフルートの酸《す》っぱい音を吹きたてたり、または気を変えるために、途切れがちにハーモニュームをかき鳴らしたりしていた。それがクリストフには面白くもあればうるさくもあった――(日によってその気持は違った)。
それらの人々は、四方閉ざされた庭のついてる家の中で、世間の風に吹かれもせず、おたがい
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