知らず知らず自分の心を吐露していた。音楽は慎みのない腹心者である。もっともひそかな思想をも吐露してしまう。モーツァルトの緩徐曲[#「緩徐曲」に傍点]の霊妙な作意の下から、クリストフはモーツァルトのではなく、それをひいてる新しい友の、眼に見えぬ特質を見てとった、神経質な純潔な情け深い恥ずかしがりのこの青年の、憂鬱《ゆううつ》な静穏さを、内気なやさしい微笑を。しかし、その曲の終わりに近づいて、切ない恋の楽句が高まって砕ける頂点に達すると、オリヴィエは堪えがたい羞恥《しゅうち》を感じてひきつづけられなくなった。指がきかず音が不足した。彼はピアノから手を離して言った。
「もうひけません……。」
 後ろに立っていたクリストフは、彼のほうへかがみ込んで両腕を貸してやり、中断した楽句をひき終えた。それから言った。
「これで君の魂の音色がわかった。」
 彼はオリヴィエの両手をとり、その顔をまともにしばらくながめた。そしてやがて言った。
「不思議だなあ!……君には以前会ったことがある……僕はずっと前から君をよく知っていた!」
 オリヴィエの唇《くちびる》は震えた。彼はまさに話し出そうとした。しかし口をつぐんだ。
 クリストフはなおちょっと彼を見守った。それから黙って微笑《ほほえ》みかけた。そして帰っていった。

 彼は輝かしい心で階段を降りていった。二人のごくきたない小僧が、一人はパンをもち一人は油|壜《びん》をもって上がってくるのにすれ違った。彼はその二人の頬辺《ほっぺた》を馴《な》れ馴れしくつねってやった。顔渋めてる門番に微笑みかけた。街路に出ると、小声で歌いながら歩いた。リュクサンブールの園へはいった。木陰のベンチに身を横たえて眼をつむった。空気は静まり返っていた。散歩の人もあまりなかった。噴水の不同な響きや、ときどき砂の上の足音などが、ごく弱く聞こえていた。クリストフは堪えがたい懶《ものう》さを感じて、日向《ひなた》の蜥蜴《とかげ》みたいにうっとりとしていた。木影はもうとくに彼の顔から離れていた。しかし彼は思い切って身を動かしかねた。種々の考えがぐるぐる回っていた。が彼はそれを一つ所に定めようとしなかった。どの考えも皆楽しい光のうちに浸っていた。リュクサンブールの大時計が鳴った。彼はそれに耳を貸さなかった。がすぐそのあとで、十二時を打ったのだという気がした。彼は飛び上がった。
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