A一部も売れなかった。オリヴィエはクリストフを説き落として、音楽会をやらせたが、ほとんどだれも聴《き》きに来なかった。クリストフはむなしい聴衆席を前にして、ヘンデルの言葉を繰り返しながらみずから雄々しく慰めた。「素敵だ! 俺《おれ》の音楽はこのほうがよく響くだろう………。」しかしそういう空威張りも、費やした金を償ってはくれなかった。そして二人は寂しく家に帰っていった。

 そういう困難のうちにおいて、彼らを助けに来てくれたただ一人の者は、タデー・モークという四十歳ばかりのユダヤ人だった。彼は美術写真の店を開いていた。そしてその職業に興味をもち、趣味と巧妙さとをもってやっていたが、それでもなおその商売をおろそかにしたいほど他のいろんなことに興味をもっていた。商売に身を入れるのも、技術上の完成を求めるためにであり、新しい複写法に熱中するためであった。がその複写法は、巧妙な工夫になってるにもかかわらず、めったに成功しなかったし、またたいへん金がかかった。彼は非常にたくさん書を読んで、哲学や芸術や科学や政治などのあらゆる新思想を求めていた。驚くべきほど鼻がきいて、独自の力をもってる者を嗅《か》ぎ出していた。その隠れたる磁力を感じてるがようだった。オリヴィエの友人らが、各自に孤立して自分自分の仕事をしている間で、彼は一種の連繋《れんけい》の役目をなしていた。彼はあちらこちら行き来していた。そのために、彼らも彼も気づかないうちに、常に一つの思潮が皆の間にでき上がっていた。
 その男をオリヴィエがクリストフへ近づかせようとしたとき、クリストフは初め断わった。彼はイスラエルの民族との過去の経験に飽き飽きしていた。オリヴィエは笑いながら、ぜひその男に会えと説きたて、フランスを知らないと同様にユダヤ人をもよく知ってはいないのだと言った。でクリストフは承諾した。しかしタデー・モークを初めて見ると、彼は顔を渋めた。モークは外見上、あまりにもユダヤ人的だった。ユダヤ人ぎらいの者が描き出すとおりのユダヤ型、背の低い頭の禿《は》げた無格好な身体、すっきりしない鼻、大きな眼鏡の後ろから斜視《やぶにらみ》する大きな眼、荒いまっ黒なもじゃもじゃした髯《ひげ》に埋まってる顔、毛深い手、長い腕、短い曲がった足、まったくシリアの小バール神であった。しかし彼のうちには深い温情の現われがあってクリストフはそれに
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