ろしさの方が強かった。そのうえ、落ち着いて泣くだけの時間も与えられなかった。その朝から早くも、残忍な司法上の手続きが始められた。アントアネットは自分の室に逃げ込んで、青春の自己中心的なあらんかぎりの力で、息苦しい恐怖をしりぞける助けとなりうる唯一の考え、すなわち恋人へ思いをはせること、その方へすがりついていった。彼女は恋人の来訪を、今か今かと待っていた。この前会ったとき、彼は今までになくもっとも懇《ねんご》ろだった。彼がすぐに駆けつけて来て、心痛を共にしてくれるに違いなかった。――しかし、だれも来なかった。だれからも一言の便《たよ》りもなかった。なんらの同情のしるしも見られなかった。それに反して、自殺の噂《うわさ》が広まるとすぐに、銀行の預金者らはジャンナン家へ押しかけ、無理にはいりこんで来て、無慈悲な獰猛《どうもう》さで、夫人や子供たちに激しい喧嘩《けんか》を吹きかけた。
 数日のうちに、あらゆる没落がつみ重なってきた、親愛なる人の死亡、全財産と全地位と世間の尊敬との喪失、友人らの離反。それこそ全部の崩壊だった。彼らを生かしていたものは何一つ残存しなかった。彼らは三人とも、精神上の純潔さにたいする一徹な感情をもっていただけに、自分らに責のない不名誉をことにひどく苦しんだ。三人のうちで、もっともその苦悩に痛められたのはアントアネットだった。なぜなら彼女は平素もっとも苦悶《くもん》に遠ざかっていたから。ジャンナン夫人とオリヴィエとは、いかに断腸の思いをしたにせよ、苦しみの世界に門外漢ではなかった。本能的に悲観家である彼らは、圧倒されながらもそれほど驚きはしなかった。彼らにとっては、死の考えは常に一つの避難所だった。今となってはことにそうだった。彼らは死を希望した。もちろんそれは痛ましい諦《あきら》めには違いない。しかしながら、自信強く、幸福であり、生きることを愛しているのに、この底知れぬ絶望に、あるいは身の毛もよだつ死そのものに、突然行き当たった若人の反抗心に比ぶれば、それほど恐ろしいものではない……。
 アントアネットは世間の醜悪さを一挙に見て取った。彼女の眼は開けた。彼女は人生を見た。父や母や弟を批判した。オリヴィエとジャンナン夫人とがいっしょに泣いてる間に、彼女は一人自分の苦悩の中に閉じこもった。彼女の絶望した小さな頭脳は、過去現在未来を考慮した。そしてもはや自分には何も残っていないのを知った、なんらの希望もなんらの支持もないのを。もはや頼りうるだれもいなかった。
 悲しい恥ずかしい葬式が行なわれた。教会は自殺者の死体を受けることを拒んだ。寡婦と孤児たちとは卑劣な旧友らから見捨てられた。ようやく二、三の人たちがちょっと顔を出した。彼らの迷惑そうな態度は、他に会葬者がないことよりもさらにつらかった。彼らは会葬を一つの恩恵としているらしかった。その沈黙は非難と軽蔑《けいべつ》的な憐憫《れんびん》との塊《かたま》りだった。親戚《しんせき》の方はさらにひどかった。ただに弔慰の言葉を寄せないばかりでなく、苦々《にがにが》しい非難を寄せてきた。銀行家の自殺は人々の怨恨《えんこん》を鎮《しず》めるどころか、破産にも劣らないほどの罪悪らしかった。中産階級は自殺者を許さない。もっとも不名誉な生よりもむしろ死を選ぶことは、もってのほかのことだと思われている。「諸君といっしょに生きることくらい不幸なことはない、」と言うらしい人の上には、あらゆる峻厳《しゅんげん》な法の制裁が喜んで加えられる。
 もっとも卑怯《ひきょう》な者こそ、もっとも激しく自殺を卑怯な行ないだと非難する。自殺者が人生からのがれながら、おまけに彼らの利益と復讐《ふくしゅう》心とを毀損《きそん》するときには、彼らは狂人のようになる。――彼らは、不幸なジャンナン氏がいかに苦しんでからそこまで到達したかを、ちょっとも考えてみようとしなかった。なお彼を千倍も苦しませたいほどだった。そして彼がいなくなると、その家族の者たちに非難の鋒先《ほこさき》を向けた。彼らはそれを自認してはいなかった。なぜならそれは不正なことだと知っていたから。けれどもやはりそうせずにはいられなかった。一つの犠牲者が彼らには必要だったのである。
 もはや嘆くよりほかに能のないように見えるジャンナン夫人も、夫が攻撃をされると、気力を回復してきた。彼女は今や、どんなに彼を愛していたかを知った。そして三人の者は、あすはいかになりゆくか少しも考えていなかったので、皆心を合わせて、母の持参財産や各自の財産を提供して、できるだけ父の負債を償却した。それからもう土地へとどまってることができなくて、パリーへ行こうと決心した。

 出発は逃亡に等しかった。
 前日の夕方――(九月末の寂しい夕《ゆうべ》だった。田野は白い濃霧に覆《おお》
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