に変わって、口もとや眼の中にそれが輝いていた。彼女は繰り返した。
「私は幸福だ……。」
 失神の状態が襲ってきた。まだ意識を保ってる最後の瞬間に、彼女の唇は動いていた。何かを誦《とな》えてるのが見てとられた。オリヴィエはその枕頭《ちんとう》に来て、彼女の上に身をかがめた。彼女はまだ彼を見分けて、弱々しく微笑《ほほえ》みかけた。その唇はなお動いていて、眼には涙がいっぱいたまっていた。何を言ってるのかは聞こえなかった……。しかしオリヴィエはついに、古い歌の文句を、息の根のように細く聞きとった。それは二人が非常に好きであって、彼女が幾度も彼に歌ってくれたものだった。

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吾《われ》また来《き》たらん、いとしき者よ、また来《き》たらん……。
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 それから、彼女はまた失神の状態に陥った……。そしてこの世を去った。

 彼女はみずから知らずに、多くの人たちに、知り合いでもない人たちにさえ、深い同情の念を起こさしていた。同じ建物に住んでる名も知らない人たちにも、同様だった。でオリヴィエは、見ず知らずの人たちから同情を表された。アントアネットの葬式は、母親の葬式ほど人から見捨てられはしなかった。友だち、弟の仲間、彼女が稽古《けいこ》を授けていた家の人たち、または、彼女が一身のことは何にも言わずに黙ってそばを通りすぎ、向こうでも何にも言わないで彼女の献身を知ってひそかに感心していた、多くの人たち、さらにまた、貧しい人たち、彼女を助けてくれてた家事女、町内の小売商人、そういう人々が彼女を墓地まで見送ってくれた。オリヴィエは姉の死んだ晩から、ナタン夫人に迎えられ、強《し》いて連れて行かれ、その悲しみを無理に紛らされた。
 それは、彼がかかる災厄に堪え得る、生涯《しょうがい》中の唯一の時期――彼が絶望に陥りきることを許されない、唯一の時期だった。彼はちょうど新しい生活を始めていて、ある団体の一員となっていて、心ならずもその流れに引きずられていった。その一派の仕事や心労、知的興奮、試験、生活のための奮闘などは、自分の心のうちに閉じこもることを彼に許さなかった。彼は一人きりでいることができなかった。彼はそれを苦しんだが、しかしそれは彼の救済であった。もう一年早かったら、あるいはもう数年後だったら、彼は破滅したに違いなかった。
 それでも彼はできるだけ、姉の思い出に一人でふけった。二人いっしょに暮らした住居を保存し得ないのが、彼にはつらかった。彼は金をもたなかった。自分に同情を寄せてくれるらしい人たちから、姉の所有品を取り留め得ない悲しみを悟ってもらいたかった。しかしだれも悟ってくれそうになかった。で彼は多少の金を、半ばは借り半ばは個人教授で手に入れて、それで屋根裏の室を一つ借り、姉の寝台やテーブルや肱掛椅子《ひじかけいす》など、取り留め得られるだけの器具をすべてつめ込んだ。彼はそれを追懐の聖殿だとした。意気|沮喪《そそう》したおりにはそこに逃げ込んだ。友人らは彼に婦人関係でもあると思っていた。彼はそこで幾時間も、額《ひたい》を両手に埋めて姉のことを夢想した。不幸にも彼女の肖像は一枚もなかった。ただ、子供のとき二人いっしょに写った小さな写真きりだった。彼は彼女に話しかけ、涙を流した……。彼女はどこにいるのか? もしそれがこの世のどこかであったなら、いかなる場所であろうとも、どんなに行きにくい場所であろうとも――せめて一歩ごとに近づけさえしたら、たとい跣足《はだし》で幾世紀間歩かせられようと、幾多の艱難《かんなん》をも忍んで、いかなる喜びと不撓《ふとう》の熱心とをもって、彼女を捜しに突進したことであろう!……そうだ、彼女のところへ行き得る機会が、たとい万に一つでもありさえしたら!……しかし何もなかった……彼女に会えるなんらの方法もなかった……。なんたる寂寥《せきりょう》ぞ! 自分を愛し助言し慰めてくれる彼女がいなくなった今では、彼は頓馬《とんま》でお坊っちゃんのまま人生に投げ出されたのだった……。親愛な心の限りない完全な親和を、ただ一度でも知るの幸福を得た者は、もっとも聖なる喜びを――その後一生の間不幸だと感ずるような喜びを――知ったものと言うべきである。

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楽しかりし時を悲惨のうちにて思い出すほど、世に大なる苦痛はあらず……。
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 弱いやさしい心の人にとってのもっともつらい不幸は、一度もっとも大なる幸福を味わってきたということである。
 しかしながら、生涯の初めのころに愛する者を失うのは、いかにも悲しいことのように思われるけれども、あとになって生命の泉が涸《か》れつくしたときにおけるほど、恐ろしいものではない。オリヴィエは若かった。そして、生来の悲観性にもかか
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