あわ》れむべき彼らはくだらない欲求をしかもってはいない。食べること、欠伸《あくび》をすること、眠ること――また、倹約すること、それだけしか彼らはなし得ないのである。アントアネットはそういう連中をよく知っていた。子供のときから見てきたのだった。富裕と貧困との眼鏡で見てきたのだった。自分が期待できる事柄について、もう幻を描いてはいなかった。それで、結婚を求めてきた男の申し出は、彼女にとっては意外の喜びだった。彼女は初め彼を愛してはいなかったが、深い感謝と情愛とがしだいに胸に沁《し》み通ってきた。彼女はその申し込みを承諾したかった。しかしそれには、彼に従って植民地へ行き、弟を見捨てなければならなかった。で彼女は断わった。相手の男は、彼女の拒絶の理由がりっぱなものであることを理解しはしたけれど、それでも許し得なかった。恋愛の利己心は、恋人のうちでもっとも尊いものと思われるその美徳をさえも、こちらのために犠牲にしてもらわなければ承知しないのである。彼は彼女に会うことをやめた。もう手紙もくれなかった。そして彼が出発してからは、彼女はその消息を少しも聞かなかった。最後にある日――五、六か月後のことだったが――他の女と結婚したという宛名《あてな》自筆の通知状を受け取った。
 それはアントアネットにとって大きな悲しみだった。こんどもまた悲痛のあまりに、彼女は自分の苦しみを神にささげた。弟のために身を犠牲にするという唯一の務めを、ちょっとでも等閑《なおざり》にした罰を受けたのだと、みずから信じたかった。そしてますますその務めに身を投げ出した。
 彼女はまったく世間から身を退《ひ》いた。ナタン家へ行くことまでやめた。ナタン夫妻は、せっかく選んでやった相手を断わられてから、多少冷淡になっていた。彼らもまた彼女の拒絶の理由を認めなかった。ナタン夫人は、その結婚がかならず成立ししかも申し分のないものだと、前もってきめていたところへ、アントアネットのせいで成立しなかったので、自尊心を傷つけられた。彼女の憂慮は、確かに尊重すべきものではあるがしかしひどく感傷的なものだと考えた。そして日に日に、その馬鹿な娘へ同情を失っていった。そのうえ、相手の承知不承知にかかわらず他人に尽くしたいという欲求から、夫人は他の女を選み出して、費やさずにはいられない同情と親切との全部を、しばらくはその女から吸い取られていた。
 オリヴィエは、姉の心中に起こってる悲しい物語を、少しも知らなかった。彼は自分の夢想の中に生きてる感傷的な浮わついた青年だった。鋭いりっぱな精神をもっていたにもかかわらず、また、アントアネットの心と同じく愛情の宝庫とも言うべき心をもっていたにもかかわらず、浮き浮きとして少しも頼りにならなかった。前後|撞着《どうちゃく》、意気|沮喪《そそう》、逍遙《しょうよう》、頭の中だけの恋愛、そんなことに時間と力とを無駄《むだ》に費やしては、数か月の努力勉強をもたえず駄目にしてしまっていた。ちょっと見かけたきれいな顔に夢中になったり、客間で一度話をしただけで少しも注意を向けてくれなかった婀娜《あだ》っぽい小娘に、すっかり心を奪われたりした。ある文章や詩や音楽などに心酔して、勉強などは放り出しながら、それに幾月もの間|一途《いちず》に没頭した。アントアネットはそれをたえず見張り、しかも彼の気を害するのを恐れて、彼に気づかれないようにと非常に注意しなければならなかった。いつどんな向こう見ずなことをされるかが恐ろしかった。肺結核に襲われる人たちにしばしば見かけるような、熱狂的な激昂《げっこう》や平静の欠乏や不安なおののきなどに、彼はよく陥った。アントアネットはその危険さを医者から聞かされていた。田舎《いなか》からパリーへ移し植えられたすでに病的なその植物には、よい空気と光とが必要なはずだった。アントアネットはそれを彼に与えることができなかった。二人は休暇中パリーを離れるだけの金がなかった。休暇のほかは一年じゅう、毎週仕事がいっぱいだった。そして日曜日には、音楽会へ行くときのほかは、もう外出したくないほど疲れていた。
 それでも夏の日曜日にはときおり、アントアネットは元気を出して、シャヴィルやサン・クルー方面の郊外の森へ、オリヴィエを連れ出した。しかし森の中は、騒々しい男女や、奏楽珈琲店《カフェー・コンセール》の歌や、きたない紙くずなどでいっぱいだった。人の心を休め清むる神聖な静寂境ではなかった。そして夕方帰り道では、列車の混雑、低い狭い薄暗いみじめな郊外客車の、むせるほどの人込み、喧騒《けんそう》、笑い声、歌の声、猥雑《わいざつ》、悪臭、たばこの煙。アントアネットとオリヴィエは、どちらも平民的な魂をもたなかったので、厭《いや》ながっかりした気持で帰ってきた。オリヴィエはもうそんな
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