らに気づかなかったが、献身の情熱と奮闘の慢《おご》りとが彼女のうちにあった。女の危険な年ごろには、かの熱っぽい春の初めのころには、多くの愛情の力が、あたかも地下に音をたててる隠れた泉のように、一身を満たし浸し包みおぼらして、絶えざる迷執の状態に陥《おとしい》れるものであるが、そのとき愛情はあらゆる形で現われる。そしてただ、自己を与え自己を他人の糧《かて》に供することしか求めない。何かの口実がありさえすれば、その清浄な深い肉欲は、ただちにあらゆる犠牲心へ変化しようとしている。愛情はアントアネットをして友愛の餌食《えじき》たらしめた。
 弟は彼女ほど情熱的ではなかったから、そういう動力をもたなかった。そのうえ、彼のために向こうから身をささげてくれるのであって、彼の方から身をささげてるのではなかった――愛するときにはこの方がずっと気楽であり楽しいものである。けれど彼は、自分のために姉が刻苦してるのを見ると、重苦しい呵責《かしゃく》の念を感ずるのだった。彼はそのことを姉に言った。姉は答えた。
「まあお気の毒ね! 私が生きがいを感じてるのはそのためだということが、あなたにはわからないの。あなたのために苦労してるということがなかったら、私になんで生きてる理由が他《ほか》にありましょうか。」
 彼にはそのことがよくわかっていた。彼がもしアントアネットの地位にあったら、彼もやはりその尊い辛苦をほしがったであろう。しかし、自分が彼女の辛苦の原因であることは!……彼の自尊心と愛情とはそれを苦しんだ。そして、一身に負わせられた責任は、成功の義務は、彼のような弱い者にとってはたまらない重荷であった。姉は彼の学業の成否に自分の生涯《しょうがい》を賭《か》けてるのだった。そういうことを考えるのは、彼には堪えがたかった。そして彼の力を増大させるどころか、時とすると彼を圧倒することもあった。けれどもとにかくそれは、反抗し勉励し生きることを彼に強《し》いた。そういう強制がなかったら、彼はおそらく生きることができなかったかもしれない。敗北――おそらくは自殺――への先天的傾向が彼のうちにはあった。覇気《はき》をいだき幸福であるようにと姉が彼に望まなかったら、彼はその傾向に引きずり込まれたかもしれない。彼は自分の天性が他から逆らわれることを苦しんだ。けれどもそれが結局仕合わせだった。幾多の青年が、官能の錯
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