た。彼はためらったが、つぎに彼女のそばへ行って、そして言った。
「許してくれ。さっきは少し手荒な口をきいたが。」
 彼女は彼にこう言いたかった。
 ――あなた、私は少しも恨んでおりません。ですが、いったいどうなすったの。苦しみの種をおっしゃってくださいね。
 しかし彼女は、意趣返しをするのがうれしくて、こう言った。
「私に構わないでください。あなたはほんとに乱暴な人ですわ。女中かなんぞによりも、もっとひどく私にお当たりなすったのね。」
 そして彼女は、遺恨を含んだ激しい早口で苦情を並べたてながら、同じ調子で言いつづけた。
 彼は気力のない身振りをし、苦笑を漏らして、彼女のもとを離れた。

 だれも拳銃《けんじゅう》の音を聞かなかった。ようやく翌日になって、夜来の出来事がわかったとき、その真夜中ごろに、通りもひっそりとしてる中に、靴の音みたいなきつい音が聞こえたのを、隣人らは思い出した。彼らはそのとき気にも止めなかった。夜の平穏はすぐにまた町へ落ちてきて、その重い襞《ひだ》の中に生者をも死者をも包み込んだ。
 眠っていたジャンナン夫人は、それから一、二時間後に眼を覚《さ》ました。そばに夫の姿が見えないので、不安になって起き上がり、方々部屋を見回り、階下《した》へ降りて行き、母家《おもや》と軒つづきの銀行の事務所へ行ってみた。そしてそこで、ジャンナン氏をその私室に見出した。ジャンナン氏は肱掛椅子《ひじかけいす》にすわり、事務机の上にぐったりとなって、血にまみれていた。その血はまだ床《ゆか》にぽたぽたたれていた。彼女は鋭い叫び声をたて、手の蝋燭《ろうそく》を取り落とし、意識を失ってしまった。母家の人たちがそれを耳にした。召使たちが駆けつけて来、彼女を引き起こして手当てを施し、ジャンナン氏の身体を寝台の上に運んだ。子供たちの室は閉《し》め切ってあった。アントアネットは至福者のように眠っていた。オリヴィエは人声や足音を聞き伝えた。何事か知りたかった。しかし姉の眼を覚ますのを気づかった。そしてまた眠った。
 翌朝、その噂《うわさ》が町に広まってからも、二人はまだ何にも知らなかった。老婢《ろうひ》が涙を流しながら、出来事を二人に知らしてくれた。母はまだ何にも考えることができなかった。不安な容態でさえあった。二人の子供は死を前にして、ただ二人きりだった。最初のうちは、悲しさよりも恐
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