女は彼の方へ両手を差し出した。クリストフは立ち止まった。このたびは彼女だとわかったのだった。彼はもう中央路に飛び降りて、アントアネットのほうへ来ようとした。アントアネットは彼に会いに行こうとつとめた。しかし残忍な人|雪崩《なだれ》は、彼女を藁屑《わらくず》みたいに押し流した。その間に、乗合馬車の馬が一頭、すべって、アスファルトの上に倒れて、クリストフの前に土手をこしらえた。そのため馬車の二重の流れが乱れて、脱しがたい柵《さく》をしばし築いた。クリストフはそれにも構わず、なお通り過ぎようとした。しかし馬車の列の間にはさまれて進むことも退くこともできなかった。やがてようやくに身を脱して、アントアネットを見かけた場所まで来ると、もう彼女は遠くなっていた。彼女はいたずらに身をもがいて、人込みの流れから出ようとしたが、つぎにはあきらめて、もう争おうとしなかった。自分の上にのしかかっていて、クリストフに会わせまいとしてるらしい宿命を、彼女は感じた。宿命にたいしてはいかんともしようがなかった。群集の外にようやく出られはしたが、彼女はもう引き返そうとしなかった。恥ずかしい気がしていた。彼になんと言えよう? 何をなし得よう? 彼はどう考えるだろうか?――彼女は自分の家へ逃げ帰った。
家にもどって初めて、彼女は安堵《あんど》の心地がした。しかし自分の室にはいり、暗がりに身を置くと、帽子も手袋もぬぐ元気がなくて、テーブルの前にじっとすわったままでいた。彼と話すことのできなかったのが悲しかった。と同時にまた、心の中に光が輝いていた。もう暗闇《くらやみ》が眼に映らなかった。自分を悩ましてる病苦のことも気にかからなかった。先刻の光景を細かくいつまでも思いふけった。その事柄を変えて、もしこれこれの事情が違っていたら、どうなったろうかということを、心に描き出した。クリストフのほうへ腕を差し出してる自分の姿が見えた。自分を認めたクリストフの喜ばしい表情が見えた。そして彼女は笑《え》みを浮かべ、顔を赤らめた。顔を赤らめて、だれからも見られない暗い室の中に一人きりで、ふたたび彼へ両腕を差し出した。もう堪えられなかった。彼女は自分自身が消えてゆくような心地がした。そばを通りかかって、温情の眼つきを見せてくれた力強い生命へ、本能的にすがりつこうとしていた。愛情と悩みとに満ちた彼女の心は、夜の中で彼に叫んで
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