した脹《ふく》れ顔の金髪を乱した娘が、神経質な素気《そっけ》ない山羊《やぎ》のような小足でそばを通りかかると、クリストフは彼女をもう一、二時間も多く眠らせるためには、自分の一か月分の生活費を与えても惜しくはない気がした。もしそれを申し込まれたら彼女は厭《いや》とは言わないだろう! 退屈げに安逸を享楽している閑《ひま》な金持ちの婦人らを、まだこの時間にはぴったり閉《し》まってるその室から追い出して、その代わりに、その臥床《ねどこ》に、その休息の生活に、これらの溌剌《はつらつ》としたしかも疲れてる小さな身体を、鈍らず満ち足らずしかも生きることに活発|貪欲《どんよく》なこれらの魂を、置いてみたらと彼は考えた。今や彼は、彼女らにたいする寛大な心で胸がいっぱいになるのを感じた。その快活なしかも疲れたかわいい顔つきに微笑《ほほえ》んだ。彼女らのうちには、狡猾《こうかつ》さと率直さとがあり、快楽にたいする厚かましい素朴《そぼく》な欲求があり、そして底には、正直勤勉な善良な小さい魂があるのだった。そのうちのある者らが、臆面《おくめん》もない眼つきをしたこの大子供《おおこども》たる彼をたがいにさし示しながら、鼻先であざけったりたがいに肱《ひじ》でつつき合ったりしても、彼は腹をたてなかった。
彼はまた河岸通りを夢想にふけりながらよくぶらついた。それは彼が大好きな散歩だった。幼年時代を守《も》りしてくれた大河にたいする郷愁が、その散歩で多少和らげられた。ああそれはもちろん、かの父なるライン[#「父なるライン」に傍点]河ではなかった。かの全能的な力は少しもなかった。精神が翔《かけ》り回って迷い込むような、広い地平線や広漠《こうばく》たる平野は少しもなかった。灰色の眼をし、褪緑《たいりょく》色の衣をつけ、繊細なきっぱりした顔つきの河であった。都市の華麗でしかも簡素な衣裳をまとい、多くの橋の腕輪をはめ、多くの記念塔の頸輪《くびわ》をつけ、悧発《りはつ》げな無頓着《むとんじゃく》さで伸びをして、またそぞろ歩きの美人のように、自分の美しさに微笑《ほほえ》んでいる、身こなし嫋《たおや》かな優美な河であった。……そのあたりの、パリーの麗わしい光よ! それこそ、クリストフがこの都会で愛した第一のものだった。それは静かに静かに彼のうちに沁《し》み通った。彼がみずから気づかぬまに彼の心を少しずつ変化さした。それは彼にとって、音楽中の最も美しい音楽であり、パリー唯一の音楽だった。彼は夕方、河岸通りや古いフランスの庭園で、幾時間も過ごしながら、紫色の靄《もや》に浸ってる大木、灰色の像や柱頭、幾世紀もの光を吸収した王政時代の塔碑の苔生《こけむ》した石、それらの上に射《さ》している光線の諧調《かいちょう》を――細やかな日光と乳白色の水蒸気とでできてる、その微妙な大気を味わった。その大気には、銀色の埃《ほこり》の中に、民族のにこやかな精神が漂っていた。
ある晩彼は、サン・ミシェルの橋の近くの欄壁にもたれて、河の水をながめながら、欄壁の上に並んでるある古本屋の書物を、何気なくいじっていた。そしてふとミシュレーの端本《はほん》をひらいた。彼はかつてこの史家の数ページを読んだことがあったけれど、そのフランス式な誇張や言語の陶酔や性急な調子などのために、あまり面白く思わなかった。ところがその晩は、初めから感動させられた。それはジャンヌ・ダルクの裁判の終わりの方だった。彼はシルレルの作でこのオルレアンの少女のことは知っていた。しかしこれまで彼女は彼にとって、大詩人から想像的生活を与えられてる架空的な女丈夫にすぎなかった。しかるに今突然その実相が彼の前に現われて、彼女は彼をとらえてしまった。彼はその厳《おごそ》かな物語の悲壮な凄《すご》みに心打たれながら、読みつづけていった。ジャンヌがその夕方死ぬことを知って、恐怖のあまり気を失うところまで読んだ時、彼の手は震えだし、涙が出てきて、読みつづけられなかった。彼は病気のために弱っていて、みずから腹だたしいほどおかしな多感性になっていた。――彼は読み終えようとしたが、もう間に合わなかった。古本屋は箱をしまいかけていた。彼はその本を買おうときめた。ポケットを探ってみると、わずか六スーしか残っていなかった。これほど貧しいのも珍しいことではなかった。彼は別に気をもみはしなかった。食物を購《あがな》ったばかりだった。翌日ヘヒトのところへ行けば、楽譜の稿料として多少の金をもらえるはずだった。しかし、翌日まで待つのはつらかった。なぜ先刻、わずかな残金を食物の代に費やしたのか。ポケットにあるパンと腸詰《ちようづめ》とを、古本屋へ書物の代として提供することができるなら!
翌朝ごく早く、彼は金をもらいにヘヒトの家へ出かけた。しかし、戦いの大天使――ジャンヌの「天国の兄弟」――の名前をもってるサン・ミシェル橋のそばを通りかかると、彼はどうしても立ち止まらずにはいられなかった。古本屋の箱の中にはまだ貴《とうと》い書物がはいっていた。彼はそれを全部読んだ。読み終えるのに二時間近くもかかった。そのためヘヒトとの面会の時間を遅らした。それからヘヒトに会うために、ほとんどその一日をつぶしてしまった。そしてようやく新しい仕事を頼まれて、金を払ってもらえた。彼はすぐさま古本屋へかけつけた。他の者から買われてやしないかと気づかわれた。もちろん買われていても大した不都合はなかったろう。ほかのを手に入れることは容易だった。しかしクリストフは、その書物がありふれたものかどうか知らなかった。それになお、ほしいのはその書物であってほかのではなかった。書物を愛する人々は、ややもすれば拝物教徒となりやすい。汚点のある汚《きたな》いページも、それから夢想の泉がほとばしり出てきたせいで、神聖なものとなるのである。
クリストフは家に帰って、夜の静けさの中で、ジャンヌの受難の福音書を読み返した。人の手前もないのでもはや感動を押えるに及ばなかった。その憐《あわ》れな羊飼いの少女にたいして、やさしみの情が、憐れみの念が、限りない悲しみが、彼の心に満ちてきた。田舎《いなか》風の赤い大きな着物をつけた羊飼いの少女、背が高く内気で、やさしい声をもち、鐘の音の歌に夢想し――(彼女も彼と同じく鐘の音が好きだった)――慧敏《けいびん》と温情とに満ちた美《うる》わしい微笑を浮かべ、いつも流れ出さんばかりの涙――愛の涙、憐憫《れんびん》の涙、気弱な涙、をたたえていた。なぜなら彼女は、いかにも雄々しいとともに女々《めめ》しかった。純潔でまた勇ましい娘だった。無頼漢どもから成る一軍の荒々しい意志を統御し、また平然として、皆の者から裏切られ孤立しながらも、その大胆な明識と女らしい機敏さとやさしい熱心とで、数か月の間、周囲を取り巻いてる教会と法律との徒輩の――血走った眼をしてる狐狼《ころう》の――威嚇《いかく》と偽善的な詭計《きけい》とを、失敗に終わらせていた。
最もクリストフの胸に沁《し》み通ったのは、彼女の温情であり心のやさしさであった――勝利の後に涙を流し、死んだ敵に涙をそそぎ、自分を侮辱した者らに涙をそそぎ、傷ついた者らを慰め、死んでゆく者らに力をつけ、自分を売り渡した者らをも恨まず、そして火刑台に上がって、炎が立ちのぼってきた時でさえ、自分のことを考えず、力をつけてくれてる修道士のことのみ考えて、彼を強《し》いて逃げさしたのであった。彼女は「最も激しい争闘中にも温和であり、悪人の間にあっても善良であり、戦いの最中にも平静であった。悪魔の勝利たる戦争に、彼女は神の精神をもたらした。」
そしてクリストフは、自分自身を省《かえり》みながら考えた。
「俺《おれ》は戦いに神の精神を十分もたらさなかった。」
彼はジャンヌの福音史家の美しい言葉を読み返した。
「人々の邪悪さと運命の酷薄さとの間にありながら、善良でありいつまでも善良であること……多くの苦々《にがにが》しい諍《あらそ》いのうちにも温和と親切とを失わず、その内心の宝に触れさせずに経験を通り越すこと……。」
そして彼はみずからくり返した。
「俺は悪かった。俺は善良ではなかった。親切を欠いていた。あまりに厳酷だった。――許してくれ。僕が攻撃してる諸君よ、僕を諸君の敵だと考えてくれるな。僕は善を、諸君にもなしたいのだ……。それでもなお、諸君が悪をなすのを防がねばならないのだ……。」
そして彼は聖者でなかったから、敵のことを考えるだけで憎悪の念が起こってきた。彼らを見ると、彼らを通してフランスを見ると、かかる純潔と勇ましい詩との花がこの土地から生じたのだとは、想像し得られないほどなのを、彼は最も彼らに許しがたく思った。それでも、かかる花が実際に生じたのだ。またふたたびそれが出て来ないとはだれが言い得よう? 今日のフランスが、シャルル七世のころのフランスより悪かろうはずはない。しかも当時の堕落せる国民からオルレアンの少女が出て来たのだ。今では、寺院は空虚であり、汚されて、半ば荒廃に帰している。それでもよろしい! 神はかつてそこで言葉を発したのだ。
クリストフは、フランスにたいする愛のために、愛し得る一のフランス人を求めたかった。
三月の終わりのころであった。もう数か月以来、クリストフはだれとも話をしなかった。彼が病気であることを少しも知らず、また自分が病気であることをも彼に知らせないでいる、年老いた母親からの短い便《たよ》りを、たまに受け取る以外には、なんらの手紙にも接しなかった。世間との関係はただ、仕事の取りやりのために楽譜商へ行き来することだけだった。そこへ行くにも彼は、ヘヒトがいないとわかってる時間にした――ヘヒトと話すのを避けるために。しかしそれは余計な用心だった。一度ヘヒトに出会ったことがあるけれど、ヘヒトは彼の健康を二、三言冷淡に尋ねたばかりだった。
かくして彼は沈黙の獄屋に蟄居《ちっきょ》していた。するとある朝、ルーサン夫人から一晩の音楽会の招待状を送ってきた。名高い四重奏曲が聴《き》かれるはずだった。手紙はきわめて親切な文句で、主人のルーサンも懇篤な数行を書き添えていた。彼はクリストフとの仲|違《たが》いを自慢にはしていなかった。情婦の女歌手と喧嘩《けんか》をして彼女に容赦ない批判をくだすようになってからは、なおさらのこと自慢にしてはいなかった。彼は善良な男だった。不正な目に会わしてやった人たちを恨んではしなかった。不正を受けた人たちが彼よりもいっそうそれを根にもってるのが、おかしく思われるほどだった。それで、そういう人たちに会ってうれしい時には、躊躇《ちゅうちょ》せずに手を差し出すのであった。
クリストフは初め肩をそびやかして、行くものかと誓った。しかし音楽会の日が近づくに従って決心が鈍ってきた。もう人間の言葉を一語も聞かないので、ことに音楽の一音符をも聞かないので、胸つまる心地がしていた。それでも彼はなお、彼奴《あいつ》らの家へ足を踏み入れるものかとみずからくり返した。しかしその晩になると、自分の弱さを恥じながらも出かけていった。
その報いはひどかった。政治家や軽薄才子らの集まりにはいるや否や、彼らにたいして近来にない激しい嫌悪《けんお》を感じた。幾月も寂寞《せきばく》のうちに暮らしてきたので、かかる人間の動物園に馴染《なじみ》浅くなっていたのである。そこで音楽を聞くことはとても辛抱できなかった。それは一つの冒涜《ぼうとく》だった。最初の曲が終わったらすぐに帰ろうと彼は決心した。
彼は周囲にずらりと並んでる厭《いや》な顔や身体を見渡した。すると、客間の向こう端で、こちらをながめてる眼に出会った。その眼はすぐにそらされたけれど、その中にこもっていたなんとも言えぬ誠実さが、まわりの鈍い眼つきの間で彼の心を打った。内気ではあるが明らかなきっぱりとした眼であった。一度だれかの上にすえられると、絶対の真実さでその人をながめ、自分のうちの何物をも隠さないとともに、おそらく相手の何物をも見落さないような、フランス式の眼であった。
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