を片づけ清潔にするよりは、むしろ腕をこまねいて、自分の仕事を委《ゆだ》ねていた、主人に、当時の神に――普通選挙に。
 実のところ、少し以前から、当時の無政府的無気力さにたいして、反動の気運が起こっていた。ある真面目《まじめ》な人々は公衆の衛生を目的とした戦いを――まだごく微弱なものではあったが――企てていた。しかしクリストフは、自分の周囲にそういう様子を少しも見出さなかった。そのうえ、人は彼らに耳を貸さなかった、もしくは彼らを嘲笑《あざわら》っていた。時々ある強健な芸術家が、一般にもてはやされる芸術の不健全な愚劣さにたいして、反抗の気勢を示すと、その作者らは傲然《ごうぜん》として、公衆が満足してる以上は自分らの方が正当だと答え返した。非難の口をつぐませるにはそれで十分だった。公衆がそう言ったのだ。それは芸術の最上の審判なのだ! そして、公衆を腐敗さした人々のためにする腐敗した公衆の立証は、拒否してかまわないこと、また、芸術家は公衆に命令するためにあるものであって、公衆が芸術家に命令するものではないこと、それにはだれも思い及ばなかった。数――客と収入額との数――にたいする崇拝が、この商売人化された民主主義の芸術観を支配していた。作者らのあとについて、批評家らも従順に、芸術品の本務は人を喜ばすことだと、宣言していた。成功が掟《おきて》であった。成功がつづく間は平伏するのほかはなかった。かくて批評家らは、快楽の相場の変動を予知しようと、作品にたいする公衆の意見をその眼色で読み取ろうと、つとめていた。またおかしなことには、公衆の方でも、作品をどう考えていいかを、批評家の眼色で読み取ろうとつとめていた。そして両方から眼を見合わしていた。しかもたがいの眼の中には、自分自身の不決断が見て取られるばかりだった。
 けれども、大胆な批評が最も必要な場合であった。無政府的共和国にあっては、万能である流行が、保守的な国におけるように退転することは、めったにあるものではない。流行は常に前進してゆく。そして精神的|似而非《えせ》自由が、たえずせり上がってゆく。それにはほとんどだれも抵抗しようとしない。群集は本音を吐くことができない。心の底では不快を感じているが、しかしだれもあえて、自分がひそかに感じてることを言い得ない。ここでもし批評家が強かったならば、あえて強くあり得たならば、いかなる権威を彼は握ることだろう! 頑強《がんきょう》な批評家は数年のうちに、(と若い専制者クリストフは考えた、)一般趣味のナポレオンとなることもでき、芸術のあらゆる病人をビセートル療養院へ追い払うこともできるかもしれない。しかし、もはやナポレオンは存在しない。……第一、批評家らは皆、腐敗した空気の中に住んでいる。しかもそれに気づかなくなっている。次に、彼らはあえて語り得ない。彼らは皆知り合っていて、小さな仲間を形造っていて、たがいに遠慮しなければならなくなっている。独立してる者は一人もない。独立せんがためには、組合生活を捨て、友誼《ゆうぎ》をも捨てなければならないだろう。それだけの勇気を、この柔弱な時代にだれがもってるだろうか? 率直な正しい批評は、それをなす者がこうむることのある不快事を、償い得るものであるかどうかを、最も優良な人々でさえ疑っている時代なのだ。本分のために自分の生活を火宅となし得る者が、だれかあるだろうか? あえて世論に対抗し、一般の愚蒙《ぐもう》と戦い、現時の勝利者らの凡庸《ぼんよう》さを暴露《ばくろ》し、馬鹿者どもの手中に渡されてる無名孤独な芸術家を擁護し、服従をのみ知ってる人々の精神に帝王の精神を課し得る者が、あるだろうか?――劇場の廊下で初日の晩に、批評家らが言い合ってる言葉を、クリストフはふと耳にすることがあった。
「どうだい。まずいね。失敗だね。」
 しかも翌日になると彼らは、傑作だとか、新しいシェイクスピヤだとか、天才の羽ばたきが頭上をかすめたなどと、新聞記事の中で言っていた。
「君らの芸術に欠けてるものは、」とクリストフはシルヴァン・コーンに言った、「才能よりもむしろ性格だ。君らに多く必要なのは、偉大な批評家であり、レッシングであり、また……。」
「ボアローかね?」とシルヴァン・コーンはひやかして言った。
「おそらくそうだ。十人の天才芸術家よりも一人のボアローだ。」
「ボアローがいたって、」とシルヴァン・コーンは言った、「だれも耳を貸すまいよ。」
「耳を貸す者がいないとすれば、その男がボアローでないからだ。」とクリストフは答え返した。
「僕は誓っておくが、もし僕が君らの赤裸々な実相を言ってやろうと思ったら、その時こそは、いかに僕が無器用であるにせよ、君らに耳を傾けさせないではおかない。かならず君らに丸飲みにさせてみせる。」
「そうかねえ。」と
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